木下弥右衛門の解説~我が子の栄達を見ずして死去した豊臣秀吉の実父

木下弥右衛門

豊臣秀吉の家族と言うと、母の大政所、妹の旭姫、弟の豊臣秀長が挙げられることが多いですが、これらの人物に比較するとマイナーながらも重要な役目を果たした人物がいます。その人物こそが本項の主人公にして秀吉の実父である木下弥右衛門(きのした やえもん)です。

出自・職業さえも不詳な天下人の父

豊臣秀吉の実父と言う肩書に反して弥右衛門に関する史料は少なく、従来から様々な説が唱えられてきました。秀吉が頼りにした賢弟・秀長は彼の子供であるとも、大政所の再婚相手である竹阿弥の子ともされ、父母を同じくする兄弟なのか父親違いなのかもはっきりとしていません。


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名字があることから裕福な百姓とする説もありますが、一方でこの木下と言う姓すらも、江戸時代中期に成立した『太閤素生記』によるもので当時の記録ではなく、実態は不詳です。

また、名字を持たない下層の民間人とする説もあり、彼がどのような身分であったかについても様々な説が存在します。広く唱えられている農民説(貧富貴賎を問わず)以外に提唱されている弥右衛門の身分・職業は、以下のようなものです。

・大工、鍛冶、木地師(塗り物師)などの職人階級
・息子の秀吉も携わったと言われる針売りの行商人
・漂流民が旅芸人と狩猟を行った傀儡子、非定住民の三窩(サンカ)
織田信秀に仕えていた足軽ないしは雑兵

中でも著名なのは信秀に仕えていた下級武士(雑兵であれば傭兵)だったのが、戦傷によって戦線を退いて帰農し、秀吉とその姉である瑞龍院を儲けていたとする『太閤素生記』による記述です。が、同書に弥右衛門が就いていた職として“鉄砲足軽”とする記述があり、種子島への鉄砲伝来があった天文12年(1543年)に弥右衛門が死去していること、身分の低いものが姓を名乗ることへの疑問が呈されています。

しかし、いずれにしてもはっきりしていることは木下弥右衛門と言う人物は高貴な人物ではなく、息子である秀吉の出世を見ることなくして夭折したと言うことです。

系譜から抹消?死後も不遇な父・弥右衛門

弥右衛門の死後に妻・大政所は竹阿弥と言う男性(この人物も生没年不詳)と再婚し、織田家に仕官して出世街道を邁進する息子・秀吉を見守りながら富貴な余生を過ごしたことは有名です。しかし、そんな妻とは正反対に当の弥右衛門は“妙雲院殿栄本虚儀”なる戒名は付けられるものの、死後も今ひとつ恵まれない待遇を受けてしまいます。

天下人となった秀吉は母をはじめ姉・弟などの近親者とその身内(とりわけ後継者候補になった豊臣秀次小早川秀秋)は重用したものの、なぜか弥右衛門につながる父方の系譜にある者は登用していません。また、御伽衆である大村由己に著述させた『天正記』では母方の祖父を“萩の中納言”と言う人物としており、他にも宮仕えを退いた大政所が弥右衛門に嫁いで生まれたのが自分であるとしていました。

そして、これも有名な“日輪の子”と称して諸外国に服属要求したことや西夏(中国の王朝)王の末裔と吹聴したことなども含め、秀吉は自らのルーツを神仏由来や王侯貴族(そして天皇の御落胤)と匂わせる記録を喧伝しており、小説や児童書などでは最愛の実父として描かれることが比較的多いはずの父・弥右衛門の存在を抹消しようとしていたとする見解さえ存在します。

いずれにせよ、智略と才覚で武家のトップ、朝廷の重職を手にした天下人・秀吉からすれば高貴な身分でない父と言うものは喜ばしいものではなく、結果として木下弥右衛門は出自・身分ばかりか実の父であるかどうかさえも未だに不透明なままです。その弥右衛門が大河ドラマ『豊臣兄弟!』では主人公・秀長とどのように描かれるか、どの役者さんが演じられるかに期待して筆を置かせて頂きたく思います。

(寄稿)太田

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