藤原頼通とは
藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、藤原道長と正室・源倫子の長男として正暦3年(992年)正月に生まれました。姉には一条天皇の妃である彰子皇后、弟妹としては妍子や頼宗、顕信、能信などがいます。
幼名を田鶴と言った頼通は生まれて6年目の長徳4年(988年)に童殿上、長保5年(1003年)には内大臣である藤原公季の加冠で元服、従五位下に叙任されて頼通の名を名乗ります。3年後には従三位となって公卿の列に加わり、長和2年(1013年)には権大納言の位を賜りました。
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当代きっての有力者であった道長の子にふさわしい出世街道を歩む頼道に対しては、縁談も順風満帆なもので、具平親王(村上天皇の皇子)が道長に娘である隆姫女王との縁談を申し込み、道長も「男は妻がらなり(男子の値打ちとは妻で決まるものだ)」と大喜びで受諾します。家柄のみならず文才や美貌も兼ね備えた隆姫と頼通の夫婦仲は極めて良かったのですが、子供がいないのが悩みの種だったと言います。
柔和な愛妻家・頼通
そんな頼通に災難が降りかかったのは長和4年(1015年)、道長の牽制を画策した三条天皇から禔子内親王との縁談を勧められた時でした。親王の娘である隆姫を正室として迎えている頼通は、彼女より格上の内親王をめとることに悩みますが、
「男は妻は一人のみやは持たる 痴のさまや(男子が妻一人しか持たないとは、とんでもないことだよ)」
と父の道長までもが結婚と内親王に子を産んでもらう事を強要してきたため、愛妻家の頼通は病に伏します。一夫多妻が当たり前だった時代のことであるため、『栄華物語』の作者は頼通を『雄々しからぬ御心』とその惰弱さを強調する一方、隆姫への強い愛情と彼女の弟皇子をとても可愛がる優しさには好意的です。
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思わぬ事件が起こるものの、愛する我が子の病状に両親の心配は大きかったらしく、更に『栄華物語』では泣きながら法華経を読む父道長と、母倫子が頼通に薬湯を飲ませながら幼い子のようにして彼を抱きしめていたと記します。そして、加持調伏したところ隆姫の父である具平親王の怨霊が、娘夫婦を心配するあまり物の怪となって現れたために道長は破談とした(『小右記』によると藤原伊周の霊)とするのが、頼通の婚姻を巡る騒動の顛末です。
長和6年(1017年)、頼通は内大臣に昇進すると同時に父の代わりに摂政宣下を受け、藤原氏の代表者たる藤氏長者の位を譲られます。しかし、治安3年(1023年)と万寿2年(1025年)に一時勘当されたのをはじめ、公卿衆の前で叱責される一幕もあったりと、実権は依然として道長の手にあったようです。こうした事例をみると、先述した隆姫の一件も併せて頼通は道長と比較すると頼りない後継者と言う印象を受けますが、彼は決して無為無策の人物と言う訳ではありませんでした。
長期政権の構築と摂関政治の衰退
その力量は万寿4年(1027年)に道長が死去した翌年に房総地方で平忠経が起こした反乱、永承6年(1051年)から康平5年(1062年)までの長きに渡って東北地方で勃発した前九年の役と言った各地での内乱がおきても、藤原氏の政治基盤を弱体化させるどころか、守り抜いたことで発揮されます。政治面でも天皇の外戚と言う立場を活かして権勢を自らに集中させ、関白の役職は50年もの長期にわたって務めあげ、安定した政権を築きました。
このようにして頼通の治世は辺境で戦役こそあれども、長期に渡って安定した状況でしたが、父ほど子供に恵まれなかった事が禍根を残しました。長女の寛子を後冷泉天皇の皇后とした他、隆姫の縁を頼って敦康親王の娘である嫄子女王を養子に迎え、後朱雀天皇に中宮として入内させますがいずれの姫も男子に恵まれず、頼通は『一家三立后』を成し遂げた父の偉業に追いつくことは出来ませんでした。ついには道長の曾孫ではあるものの藤原氏を外戚に持たない尊仁親王が後三条天皇として即位することになり、摂関政治が衰退して院政の時代へと移る過渡期というべき時期を迎えます。
それでも頼通は康平5年(1062年)に太政大臣、2年後に藤原氏長者、そして治暦3年(1067年)には関白を辞し、延久4年(1072年)に81歳で出家するまで朝廷の重職にあり、精力的に活動し続けました。しかし、それから2年が過ぎた延久6年(1074年)に83歳で世を去ります。彼の死後、同母弟の教通や末子の師実が実権を握るものの、道長・頼通の2代で築かれた繁栄は戻らず、後三条天皇の長男である白河天皇が始めた白河院政によって、摂関政治は形骸化と衰退の一途を辿ったのです。
藤原頼通の功績
先述したように、藤原頼通は道長と比較されては低評価を受ける事がありますが、父と不仲な知識人だった藤原実資と親交を深めたり、26歳と言う最年少で就任した摂政職や関白の職を50年勤め上げたことなど、藤原氏の全盛期を築いた政治家にふさわしい実績を残しています。また、頼通は文化面での功績も大きく、『後拾遺和歌集』に名を連ねる歌人としても名を残し、永承7年(1052年)に亡父が別荘としていた宇治殿を寺院に改築し、平等院鳳凰堂を創建させたのは最も著名な事績のひとつです。
一見すれば華やかで平和に見えますが、人災と天災が入り混じり、末法思想が生まれた平安時代の権力者だった頼通は、鳳凰堂は衆生を救うとされる阿弥陀如来、平等院は天照大神と同一視された大日如来を本尊とした寺院を建立し、この寺で一生を終えました。当時の人々が憧れた西方浄土を現世に現れさせたかのような名刹は、悩みながらも長期安定型の政権を守り抜いた頼道の栄華と祈りの心を今に伝え続けています。
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参考文献、サイト(敬称略)
日本古典文学全集 栄華物語1~3巻
(寄稿)太田
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