斯波義統とは
斯波義統(しば-よしむね)は尾張守護の斯波義達の嫡男で、生まれは永正10年(1513年)官途は治部大輔・左兵衛佐、「義元」あるいは「義遠」とも名乗ったと言われています。
斯波氏は清和源氏の足利氏の一族で、陸中の紫波群より起こり室町時代は尾張・越前・遠江の守護で三管領の筆頭を務める家柄でした。また斯波氏宗家は「武衛家」とも呼ばれ、その家紋は足利氏と同じ「二つ引両」と「五七桐」を用いています。
しかし、その後斯波氏の権威は衰退、領国の支配は守護代たちに掌握される形となり、戦国期には斯波氏の本拠地は尾張守護代の織田氏に迎えられ尾張に移っていました。
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この現状を打破するべく、斯波義統の父斯波義達は遠江に進出していた駿府の今川氏に戦いを挑みます。
しかし戦況は劣勢で永正12年(1515年)には義達自身が今川軍の捕虜となってしまい剃髪、尾張に送り返されます。その後、権威が失墜した義達は隠居し3歳の義統が斯波氏家督を相続します。
当時尾張は守護代織田氏が上四郡を支配する伊勢守家(岩倉織田氏)と下四郡を支配する大和守家(清洲織田氏)に分裂しており、斯波義統は大和守家の織田信友に擁立されていました。
しかし、この頃より大和守家では清州三奉行の一つ弾正忠家が門前町で栄える尾張津島の経済力を背景に台頭、弾正忠家は織田信秀の代に戦国大名化し美濃の斎藤氏や今川氏と争うようになります。
そして天文13年(1544年)に信秀が美濃へ進攻した際には斯波義統が信秀を支持した形跡があり、義統の支援を受けた信秀は伊勢守家や同じ清州三奉行の因幡守家を自軍の指揮下においています。
この斯波義統と織田信秀の接近を織田信友は快く思わず、信友は信秀と対立する今川氏に誼を通じ、信秀の死後は嫡男である織田信長ではなく弟の織田信勝を支持、弾正忠家を継いだ信長と対立します。
その後斯波義統と織田信友の関係も悪化、信友が織田信長暗殺を企てた際には義統が信長に密告、『信長公記』には義統の家臣簗田弥次右衛門が清州の那古野弥五郎たちと企てて信長に内通し信長が清州城下に軍勢を出す様子が記されています。
こうして斯波義統が完全に織田信長に内通しているとみた織田信友家臣、坂井大膳・織田三位・河尻左馬丞たちは同年7月義統の息子斯波義銀が家中の人間を連れて川狩りに出かけている隙をついて義統を襲撃、義統は弟の斯波統雅や従叔父の斯波義虎らとともに自害します。
この事件の正式な年は分かっていませんが天文23年(1554年)7月12日が正しいと考えられています。
父斯波義統自害を聞いた斯波義銀は湯帷子のまま那古野に逃れて織田信長に救いを求めます、これにより守護斯波義統の仇討ちという大義名分を手に入れた信長はすぐさま織田信友を攻撃、大和守家は滅亡します。
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その後斯波義統の息子斯波義銀は新たな尾張守護として織田信長に庇護されることになります。
(寄稿)kawai
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