石川康長と石川康勝~松本城を完成させた石川数正の子の運命


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 石川康長は、1554年、徳川家康の家臣・石川数正の嫡男として生まれた。母は正室・内藤義清の娘。
 名は他に、石川三長・石川数長、石川玄蕃頭ともある。

 石川康勝は石川康長の弟だが、生年や母は不詳。通称は肥後守。諱は石川員矩、石川達安とも。

 この兄弟は元服すると父・石川数正と共に、多数の戦に参加した。

 1584年には、豊臣秀吉の養子となる徳川於義丸(徳川秀康)に従い、兄・石川康長(石川三長)と石川康勝は大坂城に赴いている。

 しかし、1585年、父・石川数正が徳川家康のもとを出奔して豊臣秀吉を頼ると、一族郎党約100名と共に和泉国の与えられた地に移った。

 その後も、九州征伐、小田原攻めと父・石川数正と共に参戦。

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 1590年、父・石川数正が松本城80000石に封じられると、石川康長や弟・石川康勝らもそれに従った。

 1592年、朝鮮の役には父と共に肥前名護屋に滞陣したが、父・石川数正が肥前名護屋城への出陣中に亡くなる。
 その為、嫡男・石川康長が石川家の家督を継いで、松本藩の第2代藩主となり、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りは次男・石川康勝が安曇郡15000石(信濃奥仁科藩主)、3男・石川康次が5000石をそれぞれ分割相続した。

 石川康長は父・石川数正より、松本城の築城や城下町の整備事業を引き継いたが、その規模は80000石の財政を超えていた為、松本の百姓人夫は苦労したと言う。
 山林の木や竹を伐採し、民家が取り壊わされても補償は無く、強引な政策であったようだ。

 有名な松本城の太鼓門に据える巨石「玄蕃石」を運ぶ人足が、運搬に難渋し不満を訴えたことを知ると、石川康長は自らその人足の首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで、巨石を運搬させたと伝わっている。

 国宝・松本城は平城であることから石垣が低いが、石川康長はその欠点を補うため、堀の水中に鋭い杭列を埋め、城攻めされた場合の防御策を講じている。

 1597年、豊臣秀吉より石川康長は豊臣姓を下賜され、従五以下に叙せられる。

 1600年、関ヶ原の戦いで、石川家は徳川家康に味方して東軍に与し、徳川秀忠に従い、2000を率いて上田城真田昌幸攻撃に参加したため、所領を安堵された。
 この頃、徳川家で実力をつけてきた大久保長安の嫡男・大久保藤十郎に、石川康長の娘が嫁いでいる。

 1610年、石川康長は筑摩神社に豪華な桃山様式の柿葺拝殿を建造し奉献。
 この年、次男・石川康勝は、豊国祭礼に豊臣秀頼の名代として参詣しており、石川康勝は豊臣秀頼の側近になっていた可能性を指摘されている。

 この年、1610年に家中で騒動が発生。
 筆頭家老・渡辺金内と、若手実力者・伴三左衛門との間で、松本藩政の主導権をめぐって対立した。
 どうも、この裏に石川数正に煮え湯を飲まされた徳川家康の存在があったようで、徳川家康は家中騒動を理由に松本藩を取り潰すつもりだったと考えられる。
 この苦難に、石川康長と縁戚であった大久保長安が、かつて石川康長の後見人でもあった宿老・秋山治助を介入させて、伴三左衛門を石川毛の中枢から駆逐することで、無難に騒動を終結させた。
 しかし、1613年4月25日、勘定奉行・老中格の大久保長安が死去すると、本多正信本多正純親子は勢力拡大を狙い、生前の大久保長安が豪勢な暮らしをする為、横領していた(大久保長安事件)とし、大久保長安の一族を5月17日に捕え処刑した。
 石川康長の娘が、大久保長安の嫡男・大久保藤十郎(享年37)の正室であったことから、石川家も大久保長安事件に連座し、領地隠匿の咎を受けて、10月19日、石川康長は豊後佐伯に流罪となり毛利毛預かりとなった。のち、弟・石川康勝、石川康次も佐伯に流罪。
 改易の本当の理由は分量を超えた城普請が原因であったとする説や、かつて徳川家から寝返った事もあり、江戸幕府の外様大名外しであったとする説などもある。

 石川家改易後、1613年11月、飯田藩50000石より小笠原秀政が80000石で松本藩に入り旧領復帰している。

 石川康長は長い間、佐伯で謹慎するも、1642年12月11日、佐伯の配所で死去したと伝わる。享年89。

 ただし、改易直後の1614年、大坂の陣において弟・石川康勝と共に豊臣方として参加し、1615年に戦死したとの説もあるが、墓所は石川康長の配流先である佐伯法輪山善教寺にある。

 実際、石川康勝(石川肥後守)は改易後、1614年に大坂の陣が勃発すると、豊臣方に与して大坂城に入った。
 大阪城に入場した浪人全体としてはキリシタンに次いで、大和の筒井家の旧臣と並んで石川家旧臣の入城が多かったと言う。

 大坂冬の陣における真田丸の戦いの最中に配下が誤って火縄を火薬箱に落として誤爆させ、石川康勝自身も火傷したが、この騒ぎを東軍が南条元忠の内応合図と勘違いし、松平忠直が急襲して来た為、木村重成が撃退ら成功した一件が有名だ。南条元忠は内容が露見して切腹している。
 1615年、大坂夏の陣において石川康勝は、真田幸村(真田信繁)の寄騎となり、天王寺・岡山の戦いの天王寺口の将として出陣し奮戦し、兵5000(後に1000人増員)を指揮して惣構平野口・八丁目口間を守備。
 天王寺・岡山の戦いで結城朝勝とともに真田勢の左先鋒を形成し、小笠原秀政を破るなど活躍したが、乱戦の中、真田幸村(真田信繁)隊と運命を共にし討死した。

 →松本城に関してはこちら

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  1. 2015年 8月 26日

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