大須賀忠政~8歳にして横須賀城主に抜擢された徳川家臣

大須賀忠政とは

大須賀忠政(おおすが-ただまさ)は、1581年、榊原康政の嫡男(一説に次男)として生まれました。
母は大須賀康高の娘です。

母の父・大須賀康高は、徳川家の重臣であり、大久保忠世鳥居元忠にも劣らない武功を挙げていて「徳川二十将の1人」と称される勇将です。

しかし、1589年に大須賀康高が死去すると、跡継ぎがいなかったことから、榊原忠政が母の出身である大須賀家の養子となり、8歳にして横須賀城主となりました。

なお、徳川家康からは松平姓を与えられ、徳川家康の養女(松平康元の娘)を正室に迎えています。

榊原家は2人の弟である榊原忠長と榊原康勝が、それぞれ継ぎました。


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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が江戸城主となると、大須賀忠政は上総・久留里城主として3万石となりました。

1599年には豊臣姓も下賜されています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、奥平信昌らと徳川本陣に加わりました。

1601年2月、久留里城から遠江・横須賀城6万石に加増移封されると、大須賀忠政は横須賀藩の初代藩主となっています。

1605年、大規模な検地を行なって城下町の整備を行いました。

1607年春、病に倒れれると養生のために上洛しましたが、9月11日に伏見にて死去しました。享年27。

墓所は静岡県掛川市山崎の撰要寺です。

子・大須賀忠次が家督を継いでいますが、のちに大須賀忠次は榊原家に嫡子がいなかったことから、榊原家の家督を継承したため、大須賀家は断絶しています。

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