北条氏繁・北条氏舜・北条氏勝と玉縄城の縄張り


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北条氏繁北条氏舜・北条氏勝

北条綱成の嫡男・北条氏繁(1536年~1578年)は初名を福島康成(北条康成)と言い、別名では左衛門大夫、常陸介を名乗った。正室は北条氏康の娘を迎えたとされ、子に北条氏舜・北条氏勝・北条氏成(北条直重)・北条直胤・北条繁広がいる。

父・北条綱成(北條綱成)と同じく武勇に優れていたとされ、羽生城攻略、第2次国府台の戦い、関宿城攻略などに功があった。1561年上杉謙信小田原城攻めや、1569年武田信玄の小田原城攻めにおいても玉縄城にて籠城し守り抜いたとされる。

北条氏繁(北條氏繁)は北条氏康(北條氏康)からの信任も厚く、常陸・上総・下総方面を任され1577年には藤沢より鋸曳き職人らを呼び寄せて、逆井城(飯沼城)を大規模な改修もしている。

1578年、父・北条綱成に先立って逆井城(飯沼城)にて病死したが、子の北条氏舜(?年~?年)が跡目を継ぎ1580年には岩付城主を経て玉縄城主に戻り、相模国東郡で、鳥を射ったり、仕掛けて取ることを禁じる法度を公布している。
その後、北条氏舜の名は見られなくなり、弟の北条氏勝(1559年~1611年)が家督を継いだ。

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1590年、豊臣の小田原攻めの際に北条氏勝は伊豆・山中城に篭城するが、先陣である中村一氏、一柳直末・一柳直盛の兄弟ら大軍の豊臣勢には勝てず辛くも城を脱出。そして自害を図るが、弟の北条直重・北条繁広の諫言により本拠である玉縄城へ戻り籠城した。

その後、玉縄城は徳川家康勢に包囲されるが戦闘は行われず、徳川家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で北条氏勝の師事である玉縄城下の龍宝寺住職の説得により1590年4月21日に降伏・開城した。

降伏後は、豊臣勢の案内役として帯同し、忍城攻めなど、関東各地の北条配下諸城への攻撃に加わっている。

北条氏滅亡後、北条氏勝(北條氏勝)は徳川家康の家臣として仕え、関が原の合戦などで功績を重ね、丹波亀山城の城代も務めている。
そして、下総・岩富藩10000石の藩主となると領内の基盤整備を進める一方で、徳川秀忠の信頼も厚かったと言う。
死後は養子になっていた北条氏重が後を継いだ。

相模・玉縄城

玉縄城(たまなわじょう)は現在の鎌倉市、大船駅近くにある平山城です。
甘縄城とも呼ばれます。

玉縄城跡の本丸と推定されている部分は、現在、女子高(清泉女学院中学校・清泉女学院高等学校)があり「立入禁止」となっています。

勝手に入れば不法侵入ですので、ある意味、現代における「難攻不落」の城跡ですが、下記の太鼓櫓跡は公園整備されています。

城の周りは斜面にもいくつもマンションが建ち、住宅街となっていますので、昔の面影はわずかしか残っていません。

昔から防衛用の砦があったものと推測されていますが、1513年頃、北条早雲(伊勢盛時)が新井城の三浦義同を攻めた際に、扇谷上杉家の上杉朝興が三浦氏を救援するのを妨害するため、玉縄城を改修して本格的な城としました。
初代の玉縄城主は、北条氏綱の弟・北条氏時が配されていますので、北条家にとってはかなりの重要拠点であったことが分かります。

玉縄城の外堀が柏尾川と繋がっていて、船で相模湾まで出ることも可能だったともされています。
1526年、安房の里見義豊が鎌倉に乱入した際には、玉縄城下の戸部川で迎撃したと言われています。

北条氏時が1531年に急逝すると、北条氏綱の子・北条為昌が玉縄城主となりましたが、まだ12歳と若年であったため、大道寺盛昌や北条綱成などが玉縄城に入って補佐しました。
その北条為昌も天文11年(1542年)に23歳で亡くなると、長く城代として補佐していた北条綱成が、北条為昌の養子となり、3代城主になりました。

その後、玉縄城は、北条綱成の子・北条氏繁、北条氏舜、その弟・北条氏勝と継承され「玉縄衆」を率いて北条家の主力として関東制覇に貢献しました。
下記の辺りは、玉縄城の本丸直下にある「七曲り坂」です。

その七曲りからの展望は下記のとおりです。

下記は玉縄城の東側にある、歴代玉縄城主の菩提寺「龍寶寺」となります。

龍寶寺の境内には玉縄城の資料館なども併設されております。

玉縄城へのアクセス・生き方ですが、玉縄城の南側にある「コーナン・鎌倉大船店」があり、駐車場(タイムズ90分無料)が利用できます。
そのコーナンから散策すると、観光所要時間は約40分~60分といったところです。
太鼓櫓跡は山のうえですので、若干、坂道は覚悟が必要ですが、そんなにキツクはありません。
下記の地図ポイント地点は、玉縄城・太鼓櫓跡となります。

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