島左近(島清興) とは~「鬼左近」と称された猛将 島信勝も


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島左近(しま-さこん)はの島氏は、島政勝の子として1540年5月5日?に誕生したとされるが、出自については、大和国平群郡ともいわれるが、詳細不明。
なお、島家は奈良の椿井城・西宮城を本拠にしていたと考えられる。

筒井順慶の家臣だったようで、1571年、辰市の戦いの直前に「嶋左近尉殿」と、島左近の名が初めて見受けられる。
ただし、それ以前から筒井順慶と松永久秀との筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦いなどで、軍略を磨いていたものと推測できる。

功績が認められて松倉重信らと筒井家の重臣となり、信貴山城の戦いにて筒井順慶は松永久秀を倒した。

しかし、主君の死後に筒井家の家督を継いだ筒井定次の非道政治に絶望し、1588年2月、島左近(島清興) は出奔すると近江に去って浪人生活を送った。
1558年に生まれている子の島信勝(しま-のぶかつ)も、この頃には30歳前後であるが、おそらくは父と行動を共にしていない可能性がある。
島信勝は、1585年、豊臣秀吉の紀州攻めに、筒井順慶に従って出陣したと言う記録があるからだ。

一方、島左近(嶋左近)には仕官の話がたくさんあったとされるが、その中でも熱心だった石田三成に仕える決意をする。

有名な話では、4万石の石田三成が、知行の半分である2万石で島清興(島左近)を召抱えたとされる逸話がある。
 
ただし、島左近を召し抱えた時、石田三成はすでに佐和山城19万石であると考えられるが、それでも破格な待遇にて1592年より前には迎え入れられたようだ。
そして、石田三成と共に朝鮮出兵したものと推測されている。

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」と豊臣秀吉から称されたと言われている。

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関ヶ原の戦い

1600年、関ヶ原の戦いの前日、徳川家康が本陣を美濃の赤坂まで進めた際、島左近は兵500を藪のなかにひそませ、中村一栄・有馬豊氏の両隊を攻撃し、明石全登と共に勝利した。(杭瀬川の戦い)
この時、子の島信勝も父と共に戦っている。

そして、島左近は大垣城での軍議にて、その夜に島津義弘小西行長らと共に「夜襲」を提案した。
このように、島左近は石田三成のために、いくつも名案を出したが受け入れられずに、翌日、関ヶ原の陣を構える事に決する。

関ヶ原の戦いでは石田三成の側にて指揮に当たったが、小早川秀秋が裏切ると、島清興(島左近)も自ら前線にて奮戦したと言う。
そして勇猛果敢に戦った島左近は戦場の露と消えた。

最後に関しては、黒田長政の鉄砲隊に銃撃され負傷したあと死去した。
正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなり、島左近は黒田長政及び田中吉政の軍勢に突撃し「鬼左近」と恐れられるほど奮戦したが、銃撃により討死した。
とする説がある。

ただし、大谷吉継の首級と共に島左近の首も遺骸もみつからず、京都の立本寺に1632年6月26日没の島左近の墓があることから、生き延びていたとする説もある。

子の島信勝は、藤堂良政(藤堂玄蕃)を討ち取ったが、その直後に藤堂良政の家来で、松永久秀に内通した弟・山本半三郎に討たれたと伝わる。
※藤堂良政を討ち取ったのは、四男・島清正ともされる。

なお、島清興(島左近)と戦った徳川勢の兵には、壮絶な戦いを挑んできた「左近の悪夢」に長年苦しんだと言う話もある。

本名は島清興(しま-きよおき)であるが、このページでは通称の島左近も多用してご紹介申し上げたことを最後に明記しておく。

嶋氏館跡(春日神社)

島左近(島清興)の伝承としての居城は大和・西宮城の説があるが、近江・米原の山内一豊の正室である「千代」の出生地付近にも、嶋氏館跡がある。

嶋氏館跡は地名から飯村城とも呼ばれ、嶋若狭守秀安(入道朴底)が飯村城主だった。
現在は春日神社となっているが、地図にも余り掲載されていないほど、古い集落に同化している。

嶋秀安(嶋若狭守秀安)は京極氏の被官で、孫の島秀親・島秀季、または一族の島新六郎が島左近ではないかと推定されているようだ。

関ヶ原軍記大成などでは「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述されていると言う。

嶋氏館跡(春日神社)の場所は下記の地図ポイント地点となる。
駐車場はなく道路に止めるのも狭くて非常に困難なので、千代の誕生地である若宮家屋敷公園に車を止めて、徒歩5分。

島(嶋)と言う姓名の武将は何人もいるため、非常に混同しやすい。
参考にした史料自体が混同している可能性もあり、結果的にこのページでも混同して記載されてる可能性も無きにしも非ずなので、何かあれば「詳しく」ご指摘いただけると助かる。

筒井順慶と筒井城の戦い~筒井順昭と「元の木阿弥」や「洞ヶ峠」や筒井城
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