長尾為景~二度主を殺した「奸雄」謙信の父の苛烈な生涯


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長尾為景(ながお-ためかげ)とは。

戦国武将といえば越後の龍・上杉謙信の名を知らぬ人はまずいないであろう。
上杉謙信が元は長尾景虎という名前であったことをご存知の方も多いだろう。

だがその上杉謙信の父は誰であったか、と言われた時、長尾為景という彼の名前を脳裏に浮かべることができる方はどれくらい居られるだろうか?
息子・上杉謙信とは対称的に、下剋上の雄として知られる長尾為景。
神将・上杉謙信の父もまた息子に劣らぬ苛烈な人生を送っていた。

今回は、その軌跡を辿る。

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長尾氏という一族

長尾為景は、越後国の守護代を務める長尾能景の嫡子として生を受けた。生年には諸説あるが、延徳元年(1489)という説が最も有力である。
長尾氏は元々関東管領と越後守護を兼務していた上杉氏の被官で、このため関東や越後に広く血族が分布している。
関東管領を務めた山内上杉氏の家宰も、この長尾家である。
関東の戦国時代の始まりとも呼ばれる「長尾景春の乱」の首謀者、
長尾景春はこの山内上杉氏の家宰を二代続けて排出した白井長尾氏出身で、長尾為景の遠縁の同族に当たる。
ただ、長尾氏は上杉氏の現地代官であったものの、上司の上杉氏とは相反することも多く、
越後長尾家でも長尾為景の生まれる数代前に守護上杉氏との政争が起きている。
長尾為景の祖父や父・長尾能景の頃は守護との関係は表向き良好で、
長尾為景は能景と共に越後守護・上杉房能が実兄で関東管領の上杉顕定を支援するために援兵として赴くなどしていた。
その関東出兵から戻ると長尾能景はかねてより救いを求められていた越中の一向一揆討伐へ乗り出したのだが、
般若野の合戦中、背後で神保・遊佐氏の裏切りにあい、あえなく戦死を遂げてしまう。享年48。
一説によれば能景が己の政策に難色を示していたことを煙たがっていた守護・上杉房能が、神保・遊佐氏と秘密裏に手を組んで能景を謀殺したという説もある。
ともあれここに、弱冠18歳の越後守護代・長尾為景が誕生した。

死の瀬戸際からのデビュー

急な代替わりの隙を突いて、越後国内では石田・五十嵐などの諸氏が叛乱を起こしたが、長尾為景は守護房能から指示を受けまもなくこれを鎮圧している。
だが房能は、この若い守護代とそりが合わなかったらしい。上杉房能は長尾為景を排斥し、殺そうと目論む。
長尾為景の側も危険を察知し、いち早く上杉房能を囲むと永正四年(1507)、天水越で自害に追い込んだ。
『東国武将たちの戦国史』(西股総生・著)では為景は上杉房能に穏便に出家引退を迫ろうとしたが、プライドの高い上杉房能はそれを拒み自害したのではないかという推測がなされている。
主である上杉房能の殺害。このまま放置しておけば、為景に大義名分はない。
この時代、大義名分のないものは、武家としてその権力を行使することができなかった。
このため長尾為景は上杉房能の養子で上条氏出身の上杉定実を新しい越後守護として担ぎ上げた。
だが元々越後府中政権に反抗的な阿賀野川以北の国人・揚北衆がこれに反発し、同年7月、本庄氏・色部氏らが挙兵する騒ぎとなった。
長尾為景はこれを、為景方についた揚北衆の中条・築地・安田氏を派遣して鎮圧。
上杉定実には室町幕府より越後守護職を承認され、そのまま越後は上杉定実と長尾為景によって支配されるかに見えた。

関東管領、越後へ侵攻

ところが、である。永正六年(1509)、関東管領の上杉顕定が、大軍を引き連れ越後へと侵攻を開始した。
折しも関東ではそのころ、上杉顕定の山内上杉家と扇谷上杉氏が和睦し、長尾景春も仇敵顕定の元に服属するなど一時の平穏が訪れていた。
顕定はこの間隙を縫って越後へと攻め入り、「弟房能の仇討ち」を名目に支配圏を拡大しようとしたのである。
大軍で攻められたのではたまったものではなく、上杉定実と長尾為景は抵抗らしい抵抗もできないまま越中へと逃げ延びた。
顕定は越後府中へと入ると、為景に与していた国人達に対し苛烈な対応を行い、強権的に支配を推し進めようとした。
一方で逃げ延びた為景らも手をこまねいて見ていたわけではなく、相模の伊勢宗瑞(北条早雲)や長尾景春といった面々と連絡を取り、
着々と反撃の機会を伺っていた。
翌年永正七(1510)4月に定実を擁した為景は、佐渡ヶ島経由で越後蒲原津(現在の新潟市中央区上所上付近)に上陸。反撃の狼煙をあげた。
その後も長尾為景の外戚(外祖父あるいは伯父)である信濃の高梨政盛らが援兵として椎谷(柏崎市)に攻め入るなどしたが、大勢が変わるほどの効果は得られず、
顕定方についていた古志・上田両長尾氏に城を陥落させられ、越後国内に残る為景方の拠点は越後長尾氏の代官山吉氏の三条城(新潟県三条市)と、
そこからほど近い護摩堂城(新潟県南蒲原郡田上町)だけになっているという有様であった。
だがしかし、6月12日に顕定についていた守護定実の実家・上条氏が為景方に寝返ったことで、戦況は一変する。
同じ頃顕定の養子で越後に同道してきていた上杉憲房も敗北し、とうとう顕定は府中を放棄。
追ってきた為景は寺泊での合戦に勝利すると、そのまま府中を奪還した。
古志長尾氏までもが為景に味方し、顕定の本国である関東では、為景に呼応して長尾景春や伊勢宗瑞(北条早雲)が兵を挙げ、
危うくなった顕定は上州への帰路を急ぐ。
そのすぐ背後には、長尾為景の軍勢が迫っていた。

天下に二人と居ない奸雄

顕定は上田長尾氏の坂戸城(新潟県南魚沼市)まで到達したが、ここで思わぬ事態に出くわした。
越後にありながら山内上杉の被官であり、協力的であったはずの上田長尾氏が動かないのである。
そのせいで顕定は上野の領国へと抜けることが出来ず、追ってきた為景の軍と長森原で激突。
56年の人生を戦塵にまみれながら戦い抜いた関東管領・上杉顕定はここに戦死した。
この時の様子を、顕定の養子である上杉憲房は手紙でこう綴っている。
「房能を殺し、可諄(顕定の出家名)の身体をこのようにし、二人の主を殺した長尾為景は、天下に比べる者のいない奸雄である」と。
(なお上田長尾氏が動かなかった理由やどの程度為景に協力的であったかは、現段階では判然としていない)

越後国人の対応へ苦慮

その後の長尾為景は、自らが担ぎあげた傀儡の守護・上杉定実との確執に巻き込まれてゆくことになる。
定実自身には求心力があまりなかったため、打倒為景の兵を挙げた際も逆に捕らえて長い間監禁し飼い殺すことに成功したが、
房能殺害の折にも叛乱を起こした北越後の国人・揚北衆との関係には常に悩まされ続けた。
長尾為景は都度「裏切らぬように」と起請文を出させたりしていたが、効果の程はあまり得られていなかったようである。
対外的には父の仇である越中神保氏を滅ぼした功により越中国の新河郡守護代を任されるなどしたものの、越後国内をまとめ上げることは叶わなかった。
天文5年(1536)定実の実家・上条氏が国人衆および宇佐美定満ら上杉氏被官を焚き付け、大挙して春日山に迫るなど危機に陥ったが、
朝廷・幕府とのつながりを活かし錦の御旗(私敵討伐許可)を得て大勢を逆転。
三分一原での戦いに勝利すると、嫡子晴景に家督を譲り隠居した。

その晩年には諸説あり

晩年には、実子のいない上杉定実の後継者問題、いわゆる「越後天文の乱」への対応を余儀なくされ、
このことを巡って実子晴景とは対立していたという説もある。(前嶋敏『戦国期越後における長尾晴景の権力形成-伊達時宗丸入嗣問題を通して-』)
それゆえか、為景の没年ははっきりしておらず、天文11年(1543)が通説となっているが、近年の研究では1541年あるいは1542年であるとするものもある。
没日のみ、供養の年月日から旧暦の12月24日と判明している。
隠居地は越後長尾氏の本貫地でもあった三条城であるとも言われている。
墓石は現在、春日山城下の林泉寺(上越市)に父・長尾能景と共にひっそりと佇んでいる。

作られた長尾為景像

上杉謙信の父・長尾為景は「謙信のことを嫌い排斥しようとした悪い父親」として語り継がれてきた経緯がある。
しかしこうし謙信と不仲であったという話は謙信本人が父を尊敬していると書いた手紙によっても否定できるといい、
謙信自身の前半生の事跡もはっきりしていない部分が多いため必ずしも鵜呑みにすることはできない。
また、「春日山日記」等の軍記物などでは長尾為景の父・長尾能景と経歴が混同され、その死因を越中で戦死したこととするものも多い。
実際に、富山県砺波市には長尾為景のものという塚が存在している。

あの上杉謙信の父という立場にありながら、未だ多くの謎に包まれた奸雄・長尾為景。
今後の研究と解明が待たれるばかりである。

上杉謙信・長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
長尾為景が天下無二の奸雄と呼ばれるようになったわけ
越後永正の乱-1510年に佐渡から帰還した為景の動向まとめ
宇佐美定満(宇佐美定行)とは~上杉家の軍師と琵琶島城(野尻湖での溺死)
村上義清~北信の雄・葛尾城主
米沢の林泉寺にある上杉家墓所~仙洞院・菊姫・直江兼続・お船の方の墓

寄稿共通カウントPV (寄稿)校倉来夏


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