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内藤昌豊とは
内藤昌豊ナイトウマサトヨ(内藤昌秀)
内藤昌豊(ないとう-まさとよ)は戦国時代に武田家に仕えた武将。
別名:工藤祐長、工藤源左衛門祐長、内藤昌秀、内藤修理亮昌豊、1522年~1575年6月29日
内藤昌豊は武田信玄から内藤の性を与えられるまで、旧姓は工藤であり、工藤祐長と名乗っていた。
最近の研究では内藤昌豊ではなく、内藤昌秀の名が正しいとされるが、この章では従来どおり内藤昌豊(旧名は工藤祐長、工藤昌豊)で表記する。
工藤氏は、もともと平安時代末期に伊豆で勢力を誇った名家で、甲斐・工藤氏は、武田信虎より4代前の武田信重の弟で上総武田氏の祖にあたる武田信長に仕えていたとされる。
1416年の上杉禅秀の乱により甲斐の武田信重らは高野山にて出家するなど没落していたが、武田信重の弟・武田信長らが甲斐にて挙兵し、甲斐の領地回復に貢献した。
この時、武田信長に従っていた工藤氏が甲斐守護に復帰した武田信重に仕えるようになり、甲斐・武田家の家臣となったようである。
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工藤祐長(のちの内藤昌豊)は1522年、工藤虎豊(工藤下総守虎豊)の2男として誕生した。
工藤虎豊は郡内・小山田信有とともに武田一族である油川信恵に味方し、武田信虎と敵対したが、1508年、武田信虎が油川信恵を討ち取ると、武田信虎に許され武田家家臣として帰参した。
しかし、1536年、駿河で「花倉の乱」が起こり、敗れた反今川義元派が駿河を出奔し甲斐・武田を頼って流れてきたが、武田信虎はその落人達に切腹を命じた為、父・工藤虎豊が諫めると逆上し、勘気に触れ武田信虎に誅された。(諸説有、別説では武田信虎の駿河への出兵に対して反対した為とも)
兄・工藤昌祐は一族一門を守る為、工藤祐長(のちの内藤昌豊)らを連れて甲斐を出て諸国を流浪したと言う。海に近い漁村で世を忍んでいたとも言われる。
それから約10年後の1546年、武田信虎が武田晴信(のちの武田信玄)によって追放されると、関東にて放浪している工藤祐長(のちの内藤昌豊)が関東を流浪しているのを知り、甲斐に呼び戻し、武田信虎の罪を謝罪した上で、工藤氏の旧領と家督を継ぐことを許した。 また、流浪の身をねぎられてお金も与えられたと言われ、同時に50騎の侍大将に抜擢。工藤祐長は亡父の一字をとって工藤昌豊(工藤下総守昌豊)と改めた。
ここで気になるのが、工藤祐長の兄・工藤長門守昌祐(1520年~1582年)の動向である。工藤祐長と共に武田家に帰参したと考えられる。
工藤祐長(内藤昌豊)が箕輪城主になると、兄・工藤昌祐も箕輪城を守ったとも言われ、大きな活躍はなかったようだが、工藤祐久(工藤源左衛門祐久)(1550年~1600年)、そして工藤藤九郎(1570年~1600年)と兄の家系は続く。
武田信玄の弟・武田信廉の近侍として工藤昌祐(工藤籐七郎昌祐)の名や工藤祐久、工藤籐九郎などの名が「一蓮寺過去帳」に記録されているので、工藤氏は帰参した時は武田信廉に仕えたと考えるのが良いか・・。活躍できなかった理由も見えてくる。
もっとも、工藤昌豊(のちの内藤昌豊)の素質を見抜いた武田晴信(のちの武田信玄)が、弟ではあったが工藤昌豊の方を重用したと考えるのが自然か・・。
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工藤昌豊の采配は「御幣」、旗印は「白地に胴赤」。武田晴信の期待どおりに頭角を現す。
1562年2月、工藤昌豊は上野攻めの際、国峰城を落したが味方に死傷者なしと言う完全勝利であった。
国峰城主・図書介景純は「剛強の武将であるが、突然の出来事に驚く癖がある」と武田信玄が元山内上杉氏の宿老・小幡重貞から聞き出すと、その言葉に従い一策を案じ、内藤昌豊に軍を授け国峰城下に密かに進めさせた。
内藤昌豊が指揮する武田勢は、馬に提灯を下げさせ、徒歩の者には松明を持たせ、密かに城下に迫ると、夜半になってから、合図と共に提灯・松明に火を灯して鬨の声をあげさせた。
図書介景純は大軍の夜討ちとばかりに慌てて城から逃亡し、内藤昌豊はやすやすと城を乗っ取ったと言う。この報告を聞き武田信玄は、工藤昌豊を激賞したと伝える。
戦国の武将にしては珍しく、思慮深く温厚で、目先の事には拘らず、全体を良く見て、知略を持って戦をしたと言う。
個人の名誉や功名より全体を視野し集団統制に力を尽くした。「合戦に望み、大将の軍配に従ってこそ自軍を勝利に導くものである。いたずらに武将首だけを取ろうとする個人の戦いは味方を苦戦に落とし入れるだけだ」との発言も後世に伝わっている。
甲陽軍鑑によると山県昌景も「古典厩信繁、内藤昌豊こそは毎時相整う真の副将である」と武田信繁と共に武田の副将格として評していたとする。
人望も厚く「人衆を扱うことでは武田家無双の侍大将」とも言われている。
騎馬200騎持ちとなり、武田信玄の元、譜代家老衆にもなっている。
内藤の名を与えられた時期だが、1568年3月に武田信玄は工藤源左衛門尉に信州深志城(のちの松本城)の普請を命じている文書が発見されていることから、少なくともこの時点ではまだ工藤姓である。
工藤昌豊が内藤氏の名を与えられたのは1569年三増峠の戦いでも武功を上げ帰還後、戦死した浅利信種の後任として、1570年、深志城代から箕輪城代に移っていることから、この箕輪城代になった際に恩賞の1つとして「内藤」の名を与えられ修理亮を称したものと推測する。
また、この時、箕輪城主だった長野の旧臣200騎が内藤昌豊の配下となり、合計で同心組下50騎と300騎の大将となった。主な家臣は道寺久助、花形民部左衛門、木部駿河守、町田兵庫(待田兵庫助)、神名図書、寺尾豊後守、久保島某、長沼某、八木原某、上泉伊勢守秀綱、矢嶋久左衛門。
なお、工藤昌豊が急遽小荷駄隊を指揮し軍功を上げた三増峠の戦いは別章にて詳しくご紹介している。
箕輪城代になってからは、関東方面の政治・外交に力を注ぎ、1571年北条氏康の死去によって後を継いだ北条氏政が武田に同盟を申し入れてきた際には、武田信玄の全権名代として北条氏政と外交交渉にあたっている。
箕輪城での相備え組衆は高山50騎、白倉50騎、たい羅(多比良)40騎、木部50騎、あまお50騎、倉賀野50騎、後閑・長根あわせて60騎。信濃方面へ出陣の時は、関東などの備えに半数だけ出陣。内藤昌豊、自ら出陣の際には手勢の中から50騎だけを留守居に残した。
1572年、武田信玄の西上にも参加し、三方ヶ原の戦いでは先陣七手の将として山県隊、小幡隊とともに攻撃隊の采配を振り、徳川勢が押し込んできた所、左翼を攻めて高天神城主・小笠原長忠、本多忠勝隊を撃破。武田に大勝利をもたらす活躍をした。
1574年、高天神城攻めでは、難攻不落の城攻めで武田家勢は苦戦したが、内藤昌豊の奇策により勝利を収めた。
この頃攻めたと考えられる、天ヶ谷城攻め(高橋の城攻め)では「駿河記」に内藤昌豊家臣の戦死者名が残っており、土屋善太夫、台原勘五良、服部又右衛門、高須源之丞、大原四郎左衛門、井上半左衛門が戦死した。
1575年6月、長篠の戦いでは、総攻撃開始に先立って偵察した結果を馬場信春や山県昌景ら老臣と共に協議し、現況では、攻撃する側が不利である事を「今強攻すれば必ずや三方の損害が大きい事は、必定。よって一時的に軍を退いて直を待つか、さもなくば長期戦の構えが有利。敵の兵糧が欠乏するをみて一気に攻めることが得策」と武田勝頼に進言するが、武田勝頼とその側近は拒み総攻撃することになる。
これにより武田は山県昌景、原昌胤、真田信綱、高坂昌澄、馬場信春ら多くの武将が討死し大敗する。
内藤昌豊は約1500を率いて、織田・徳川勢を激しく攻め、内藤昌豊勢20名程が第3の柵を突破したと徳川方には記録されているが、多くの犠牲者を出し退却する。
内藤昌豊は設楽原で武田勝頼の旗印が撤退して行くのを見届けて、残兵と共に押し寄せる敵と戦い、長年戦場でも共に戦い討死した仲間を追うように、武田信玄のあとを追うように、最期を飾った。最後は体中に矢竹が刺さり、蓑のようになっていたとも言う。享年54。
感状が1通もない
戦で首の1つでも取れば家臣に「感状」と言う賞状を送るのが慣例であったが、内藤昌豊は代表的な戦には必ず参加し、数々の戦功をあげながら、武田晴信から一通の感状も受け取っていないとされている。
甲陽軍鑑では武田信玄が「修理亮程の弓取りとあらば、常人を抜く働きがあって然るべし」と言い、感状をあえて出さなかったが、それに対し内藤昌豊は「合戦は大将の軍配によってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さいこと」だから感状が無くても問題なしとし、武田信玄との深い信頼関係を物語っている。
武田信玄に拾われ、優れた主君に仕えることができ、また活躍できる喜びを幸福としていたのであろう。
そんな内藤昌豊であったからこそ、武田信玄の死をさぞかし悲しんだに違いない。長篠の戦いの討死はまるで殉死とも言えるのでないだろうか。
馬場信春、山県昌景、高坂昌信らと共に武田4名臣に数えられる。
内藤昌豊は武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼にお代替わりの誓紙提出を拒んでいる。武田勝頼の側近、長坂釣閑斎が内藤昌豊を陥れようとする情報があったからだ。
そこで、武田勝頼は「出してくれないのなら自分から出す」と、前代未聞の行動に出たと言われ、長坂釣閑斎は「大名が家臣に誓紙を出すなど聞いた事が無い」と反対したが、それを押し切り血判誓紙を武田勝頼が差し出したと言われる。
事実、武田勝頼の側近、跡部氏や長坂氏らと不仲で、お備えの談合の席では、意見の対立から斬り合いになりそうな場面もあったと言う。残念ながら、武田勝頼になってからは重臣は皆、仲が悪かった。
その後の内藤家
内藤家は内藤昌月(内藤修理亮、内藤大和守)が家督を継いで箕輪城主も歴任した。実子説もあるが、内藤昌月(内藤千次郎)は保科正俊の3男で内藤家に養子で入ったとする説もある。内藤昌月は武田勝頼が自害したあとも箕輪城に籠もっていたが、北条氏に降伏。その直後、滝川一益に仕え、本能寺の変のあとは再び北条氏に属し、箕輪城を北条氏に明け渡して、近隣の城に移ったとされる。1583年頃に作製された「小田原一手役之書立」に内藤昌月の名がある。1588年1月(5月?)に病死したらしい。39歳。
その後、内藤家の家督は内藤昌月の子・内藤昌定が継ぎ須玉町若神子村に居住したが若くして亡くなり、その子、内藤太兵衛昌康(内藤昌時)は若神子を出て、佐久郡にて小諾の仙石氏の足軽になった。その後、仙石氏の役人に許可を得て、佐久・穴原の開発を行ったと言う。穴原には現在も内藤氏一族の墓がある。
内藤昌豊の2男の内藤昌茂は妻子と甥の内藤昌定(内藤昌月の子)と共に箕輪城を出て、甲州の若神子に帰り帰農した。のちに内藤昌茂の子孫は、代々尾張藩に仕えたと言う。
3男の内藤昌直(内藤直矩)は彦根藩に仕えたされ、その子の内藤源助は会津藩に召し抱えられた。その子孫は代々「源助」を名乗り、会津藩の家老も務めている。
4男の内藤昌家は相模国に定住したとされる。
同じく4男とされる者に内藤正重の名がある。内藤昌家と同一人物か? 内藤元助、内藤政経、内藤正経とも称したようで「寛政重修諸家譜」に名がある。武田滅亡後は徳川家に仕え、甲斐東郡に150貫。その後、1590年徳川の関東に移付に伴い関東に移ったとされる。瀧川家では大番。大坂夏の陣で討死した。子に内藤正次がいる。 更に別の説では2男?とされる内藤昌弘の名が見られるが詳細は不明。
内藤昌豊の兄・工藤昌祐は武田滅亡後、徳川家に仕えたとされる。
幕末に活躍した、会津藩の家老・梶原平馬も、内藤昌豊が祖とされる。
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