富田長繁とは~武勇に優れた猛将も一向一揆と家臣らの統制は失敗した?

龍門寺城

富田長繁(とだ-ながしげ/とんだ-ながしげ)は、出雲源氏の庶流で、1551年に富田吉順の子として生まれました。
父の代にはすでに越前にいたようで、富田長繁は一乗谷城主・朝倉義景の家臣でした。
1570年4月に織田信長徳川家康越前・金ヶ崎城を攻めた際に、富田長繁は1000騎を率いて出陣したとありますので、かなりの勢力を誇っていたようです。
しかし、1572年、織田信長浅井長政小谷城を包囲した際に、朝倉勢として派遣されていた富田長繁は、前波吉継らと共に織田家に寝返りました。

そして、1573年、武田信玄が没したあと、織田信長は大軍を持って朝倉攻めを実施します。
朝倉義景が敗れて、朝倉家が滅びると、桂田長俊(前波吉継)が越前守護代となり、富田長繁は越前・府中領主を命じられて、龍門寺城を居城としました。


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しかし、同じ朝倉家から寝返った桂田長俊との待遇差に不満を抱いたようで、圧政に苦しむ越前の領民を扇動します。
天正2年(1574年)に総勢33000人の一向一揆が発生すると富田長繁が大将となって率いて、桂田長俊(前波吉継)は敗ると、家族もろとも殺害しました。

北ノ庄の代官である木下祐久・津田元嘉・三沢秀次らが籠城した旧朝倉土佐守館も襲撃しましたが、安居景健、朝倉景胤らの説得により攻撃中止すると、3人を追放して、北ノ庄の朝倉土佐守館主に毛屋猪介を命じています。
また、鳥羽野城の魚住景固と次男・魚住彦四郎を龍門寺城に招くと、朝食の席でこのふたりを暗殺しました。
その翌日には、長男・魚住彦三郎も討ち取り、魚住家を滅亡させましたが、大義の無い抹殺だったようです。

こうして、越前一国を手に入れた富田長繁は、越前に3箇条の禁制を掲げ、越前守護の朱印状を織田信長に要求しました。
しかし、領民はまた悪政に苦しまれたため、天正3年(1575年)に一向一揆は七里頼周を担ぎ14万にて再び蜂起し、旧朝倉土佐守館の毛屋猪介や、片山館の増井甚内助らが殺害されました。


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そして、龍門寺城も一向宗徒に包囲されましたが、700の兵にて撃って出ると奇跡的に勝利しています。
しかし、無理な合戦を強いられる家臣らは不満が募り、小林吉隆(小林三郎次郎吉隆)に裏切られて、背後から鉄砲で撃たれた富田長繁は、1574年2月18日討死にしました。享年24。

子には富田庄左衛門がいますが、詳しいことはわかりません。
その後、龍門寺城には加賀衆の三宅権丞が入っています。

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