吉川元長~武勇優れた毛利家の武将 (吉川元春の嫡男)

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吉川元長とは

吉川元長は、戦国時代の1548年、吉川元春の嫡男として生まれた。
母は、新庄局(しんじょうのつぼね、熊谷信直の娘)。父・吉川元春は、非常に醜女とされる新庄局とは政略結婚であったが、他に側室を持つこと無く、仲が良かったとされる。
父・吉川元春は毛利元就の2男で武勇を誇り、小早川隆景と共に毛利家を支えた猛将で、1550年には小倉山城に入ると日野山城へと移り、母と吉川本長も同行している。


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1561年、伯父・毛利隆元の加冠により元服すねと、吉川元資(もとすけ)と名乗った。

1565年から始まる月山富田城の戦いでは、従兄弟の毛利輝元と一緒に初陣を飾っている。

その後も父・吉川元春と共に出陣し、山陰各地で尼子残党との戦いを繰り広げた。

1573年、名を吉川元長と改名すると、山陰方面で戦功を挙げている。

1574年、所領に万徳院を建立。書をこのみ和歌にも長じたと言う。
同じ1574年、因幡国に進出した尼子残党の征伐を行なったが、尼子残党は執拗に再起を繰り返した。
しかし1578年の上月城の戦いで、尼子勝久山中鹿之助(山中幸盛)らを自刃させ、尼子残党を処刑し、禍根を断つことに成功している。

1581年、織田信長勢の羽柴秀吉に攻囲され、窮地に陥った吉川経家が籠る鳥取城の救援に向かったが、兵力が少なかった為、羽柴秀吉勢への攻撃ができず、吉川元春率いる本隊を待っている間に、鳥取城が降伏し吉川経家は自刃する事となった。

清水宗治が籠城した備中高松城の水攻めで、救援に向かった吉川元長に関して、下記のようなエピソードがある。

毛利家の軍議の席で、毛利家の武将・三沢為虎が、羽柴秀吉に通じているのではとの話がなされた。
その話を聞いた吉川元長は、直ちに三沢為虎の陣に向かい「あなたが秀吉と通じているとの噂だが真実か? 真実ならば今すぐ私の首を刎ねて秀吉に送るがいい!」と言ったと言う。
これに三沢為虎は大いに驚いて「まさか!事実無根の讒言です!」と言うと、直ちに誓紙を交わしたと言い、この吉川元長の行動によって、裏切者がいると感じていた将兵の動揺が収まったとされる。
 
1582年、明智光秀による本能寺の変で、羽柴秀吉と毛利毛が和睦すると、羽柴秀吉への対応で毛利輝元・小早川隆景と、父・吉川元春の間では意見が異なった為、父・吉川元春が1582年12月に隠居。その為、吉川元長が家督を継ぎ、1585年の羽柴秀吉の四国攻めなどに参陣している。

1586年、父・吉川元春は病を押して、豊臣秀吉の九州征伐に出陣し吉川元長も同行した。
その年の冬に吉川元春が病のために小倉城にて死去。


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吉川元長も、その後を追うように、1587年5月、出陣先の日向で病に倒れ、6月15日に日向都於郡で病死。享年40。

家督は、弟の吉川広家が継いでいる。

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