山鹿素行 江戸時代の武士道「山鹿流」を確立した儒学者 赤穂浪士との関係は?

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山鹿素行

山鹿素行とは

山鹿素行(やまが-そこう)は、元和8年8月16日(1622年)に浪人・山鹿貞以の子として陸奥国・会津に生まれた、江戸時代前期の軍学者・儒学者である。
戦国時代からの武士の存在意義が崩れ始め、それを模索する社会の中で、素行は新しい武士道を提唱した。
赤穂浪士にとどまらず、幕末や明治時代の人物にも影響を与えた素行の学問と思想は、一体どのようなものであったのか。

秀才ぶりを発揮した若い頃の素行

素行は、寛永5年(1628年)の6歳で江戸へ出て、9歳で林羅山の門下として朱子学を学び、15歳になると甲州流の軍学を修めたが、後に素行が基礎を立てた山鹿流(やまがりゅう)や古学(こがく)は、この頃の努力の賜物であったと見て良いであろう。


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21歳にして素行は「兵法神武雄備集」を著し、江戸で軍学を講じるなど、この頃には名高い山鹿流の基礎は固まっていたようである。
各藩は素行の軍学を高く評価し、自藩に採用しようと素行を招いたが、江戸を動こうとはしなかったという。

山鹿流とは

山鹿流は素行が創始した軍学の一派で、戦法学に儒学の精神を合わせ、武士の日常的な心構えや道徳などを、これからの武士道(士道)としてまとめ、教育化された軍学である。
これまでの戦国時代が武士道であるなら、これからの平和の時代の武士は、士農工商の頂点に立つ以上は、道徳的な指導者としての精神修養を怠ってはならないという、士道を提唱した。
素行の士道における研究はその後も続き、明暦2年(1656年)には「武教要録」などを著し、山鹿流を完成させ、士道をより明確にさせていく。
幕末の吉田松陰が相続した吉田家は、代々山鹿流を家学として師範を務め、藩主に講じており、松陰の思想の根底にも山鹿流の思想があったことは否定はできない。

赤穂藩・浅野家に仕える

承応元年(1652年)からの約8年間、赤穂藩に仕えた素行は藩主・浅野長直に破格の待遇を受けている。
長直は、赤穂事件の浅野内匠頭(あさの-たくみのかみ)の祖父であり、藩士の教育に素行を当たらせた。
もともと赤穂藩・浅野家は、西国の抑えのためか、この時代に築城を命じられた、言わば珍しい藩で、赤穂藩はこれに13年ほど費やし、素行も築城に関わった。
ようやく戦国時代の殺伐さも収まりかけたこの時代に、築城工事とあっては他藩とは変わった文化や気風になるのは当然であり、赤穂事件は赤穂藩の気風が生み出した産物といって良い。
素行の思想が直接事件に影響したかは不明ではあるものの、そういった土壌が素行を必要としたのは事実である。

朱子学を批判し流罪になる

素行は、赤穂藩を辞した後も研究を続け、寛文5年(1665年)に「聖教要録」を著し、江戸幕府の官学である朱子学に異議を唱え、赤穂藩へ流罪となる。


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藩主・長直は、素行を罪人としてではなく客人としてもてなし、再び藩士の教育に当たらせ、門弟には大石内蔵助(おおいし-くらのすけ)も在籍していた。
素行は、赦免されるまでの約9年間で、赤穂藩の気風をより確固たるものとした。

江戸時代の儒学

それまでの儒教は、仏教の補助的な学問という位置付けであったが、学問として独立させる動きがあらわれ、儒学へと変わった。
儒学の中で派生したものに朱子学と陽明学があるが、幕府は社会統制の維持のために朱子学を官学として採用する。
朱子学は、身分の上下を非常に重んじたため、幕府は戦国時代の風潮を根絶するため朱子学を利用した。
士農工商は、朱子学の思想に基づくものであり、特に武家社会において、将軍以下の者は身分をわきまえろ、ということであろう。
朱子学を批判した立場から生まれたのが、一方の陽明学である。

古学とは

素行は「聖教要録」で朱子学を批判したことは前述したが、素行はそこで古学を提唱している。
古学は、儒学の中で派生した新たな一派となった。
古学の祖は素行であるが、同じ古学派である伊藤仁斎が唱えた古義学と、荻生徂徠が唱えた古文辞学と区別するため、素行の古学は聖学と呼ばれる。
素行は、封建的な朱子学よりは、孔子や孟子の教えに立ち帰ることこそが儒学の本義ではないかという立場を取ったのである。
これ以降の朱子学は、古学が流行したこともあり、かつての勢いを失い、これに危機感を感じた幕府・老中の松平定信は、寛政の改革で朱子学意外の学問は異学とし、統制を始める。
これを寛政異学の禁と呼ぶ。

明治維新に繋がった尊皇思想

素行が赤穂藩に幽閉されていた中で著した著書に「中朝事実」があるが、この書は古学の立場から歴史に即して皇統を論じた歴史書である。
儒教の世界観は、中国こそが世界の中心であり、全てにおいて他国に優越するという中華思想がある。


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儒学が流行した江戸時代は、その中華思想に染まっていたが、それに反論したのがこの書である。王朝が度々交代する中国よりは、外国に支配されたこともなく、万世一系の天皇がいる日本が真の中朝(中華)だと述べている。
我が国こそ、世界にも稀な優れた国家であることを説いたこの書は、明治維新にかけて日本人の国家観を形成し、後の松陰や乃木希典たちに受け継がれていった。
山鹿素行、貞享2年(1685年)9月26日、江戸で死去、享年64歳。
宗参寺に素行の墓がある。(新宿区弁天町1)

(寄稿)浅原

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