品川の歴史と成り立ち 通り過ぎてはいけない街・坂本竜馬や高杉晋作奔走の地

品川宿


品川の成り立ち

品川は、中世から品川湊が物流の拠点を担い、物流が経済活動を支え、発展した歴史があった。
徳川家康は、慶長6年(1601年)八ッ山から鈴ヶ森にかけてを整備し、品川宿の設置にあたった。
江戸時代には品川宿が、交通の要衝として海陸ともに賑わい、明治時代になっても品川駅が、日本初の駅として開業されるなど、品川は人々の交流拠点となり続けた歴史背景を持っている。
品川は、江戸内外から身分を問わず多くの人々が集まり、個性のある文化が生まれ、また幕末の名高い歴史事件に関わる人物たちが、拠点としていたのが品川宿であったことも、品川という所の特徴をよく反映している。


東海道五十三次の第一宿

品川宿(しながわしゅく)は目黒川を境に、北品川宿と南品川宿に分かれ、享保7年(1722年)に新しく、歩行新宿(かちしんしゅく)が認められ、三宿で成り立っていた。
歩行新宿は、北品川の江戸寄りに置かれ、歩行人足のみを負担したという意味でそう呼ばれた。
宿場町は、商いを目的とした商店、休憩場の茶屋などで成り立つが、旅人に食事を提供し宿泊をさせる旅籠や木賃宿(木賃宿は食事が出ない宿)、その他に本陣や脇本陣という施設が設置されていた。
本陣は、大名や公家などが専用に宿泊する旅籠で、脇本陣はその予備施設であり、参勤交代が制度化されたことにより整備されている。
一般の宿泊客を受け入れた旅籠は、平旅籠と飯盛旅籠(めしもりはたご)があり、飯盛女がいるかいないかで分けられた。
飯盛女は、宿泊客の食事の給仕を行う名目で置かれた遊女で、もともと非公認であったため、「飯盛」と名を変えたものと思われる。
江戸幕府も、当初は飯盛女を取り締まったが、飯盛旅籠の競争激化から黙認せざるを得なくなり、明和9年(1772年)に上限を設ける形で、品川宿には500人の飯盛女を置くことを認めており、(内藤新宿は250人)吉原と並び称されるほどの活況ぶりであったという。
江戸時代の宿場町は、飯盛旅籠で成り立っていたといって良い。

品川の名刹・東海寺と禅僧・沢庵

東海寺は臨済宗の寺院で、山号は万松山、創建は寛永16年(1639年)、三代将軍・徳川家光により建立され、沢庵宗彭(たくあん-そうほう)を住持とした。
沢庵は、天正元年(1573年)但馬に生まれて、37歳にして京都の大徳寺の住持となったが、名利を求めなかったために、わずか3日で大徳寺を去ったという。
朝廷と幕府が対立するきっかけとなった紫衣事件で、朝廷に同調した沢庵は出羽に流罪になったが、その後許され家光に謁見し、近侍することになった。
沢庵は、生涯無欲を貫いた人といって良い。
臨終の際に、弟子たちに辞世の偈(げ)を求められたが、それも断り「夢」という一文字を書き示寂したという。
「夢」を音で読むと「む」と読み、「無」と理解できる。
自身が有ると無欲ではいられなくなるから、自身を無くし無欲の境地を自由に生きた。
弟子たちに「私が死んだら墓や位牌をつくるな、経もあげるな、裏の山に埋めてくれれば良い」と言い遺した。
生きていても「無」であったのだから、自身が生きていた証は要らなかったのであろう。


その他にも、沢庵の魅力的な人柄を伝える逸話も多く残っており、身分の別なく慕われ、家光もしばしば東海寺に相談に訪れたという。
東海寺大山墓地に沢庵の墓所がある。(品川区北品川4-11-8)

今も史跡として残る鈴ヶ森刑場跡

鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651年)に開設された刑場で、東海道沿いに設置された。
明治4年(1871年)に閉鎖されるまでの間に20万人もの罪人の刑が執行されたといわれている。
鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は、慶安の変の首謀者である丸橋忠弥とされている。
鈴ヶ森刑場が開設された頃でもある江戸時代初期は、将軍の下で容赦のない武断政治が行われ、減封や改易により仕官先を失った浪人が激増し、江戸でも浪人の犯罪が治安悪化の要因となっていた。
その中で軍学者の由井正雪が、丸橋を始めとする幕府の政治に不満を持つ浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を図った事件が慶安の変であるが、敢えて交通量の多いこの場所に刑場を設置し、最初の処刑者を丸橋としたのは、浪人を含め江戸に入ってくる人たちへ戒める意味があったものと思われる。
鈴ヶ森刑場では、その他に八百屋お七(やおや-おしち)や天一坊などが刑に処され、今も火刑や磔刑に使われた台石が、そのまま残されている。(品川区南大井2-5-6)

品川の四季折々

品川は、身近な行楽地としても庶民から親しまれていた。
将軍家の品川御殿が置かれた御殿山には、春になると桜の花と、海の眺望を楽しむ庶民で賑わい、初夏には北の天王祭(品川神社)と、南の天王祭(荏原神社)の神輿が勇壮にもみ合う。
そして、暑さが収まりはじめる頃には、海岸で二十六夜待ちの月の出を拝み、海晏寺の紅葉が冬の始まりを告げる。
品川は、江戸のどこよりも風物詩が多かったのかもしれない。

土佐藩下屋敷・浜川砲台跡

品川区立北浜川児童遊園に、坂本竜馬(さかもと-りょうま)の銅像が立っている。
この辺りは、土佐藩下屋敷(抱屋敷)があった所で、鮫洲抱屋敷と呼んでいた。
嘉永6年(1853年)ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航し、土佐藩はここに浜川砲台と呼ばれる、海防強化のための砲台を築いた。
竜馬はこの頃、剣術修行のため江戸へ遊学中であったが、黒船来航を受け、土佐藩下屋敷で沿岸警備の任務に就いている。
父・坂本八平に宛てた手紙で「異国人の首を取って帰ります」との内容から、その時の竜馬の緊張が伝わってくる。
まだ血気盛んな青年竜馬は、江戸で得た経験や人脈を巧みに駆使し、土佐の下級武士から幕末の英雄へと成長していくのである。

大事件の舞台裏となっている土蔵相模

土蔵相模(相模屋)は、品川宿の代表的な飯盛旅籠で、外壁が土蔵づくりであったため、そう呼ばれた。
安政7年(1860年)3月3日、彦根藩主で幕府大老の井伊直弼が、水戸藩を脱藩した浪士たちに襲撃された桜田門外の変の舞台裏となったのが土蔵相模である。
襲撃事件の前日の夕刻、襲撃に参加する浪士たちが土蔵相模に集結し、襲撃の成功を誓い合い、別れの杯を酌み交わし、桜田門へ向かった。
また土蔵相模は、長州藩士の活動拠点であったとされる。
高杉晋作(たかすぎ-しんさく)や久坂玄瑞たちは、ここで密議を重ね、攘夷を実行に移した。


長州藩士は、文久2年(1863年)12月12日、御殿山に建設中で完成間近のイギリス公使館を焼き討ちした、英国公使館焼き討ち事件を起こしている。
焼き討ちの夜、長州藩士が決行前に集結したのが、やはりこの土蔵相模であった。
高杉は、焼き討ち事件の数ヵ月前、幕府の使節として上海へ渡航した際、列強による清の植民地化を目の当たりにしており、この渡航により、高杉の残りの人生の中での方向性が決定したのである。

(寄稿)浅原

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