神官+武士=金刺盛澄 (諏訪盛澄)

金刺盛澄 (諏訪盛澄)

神官という言葉で連想するのは神のために信仰を行う戦いとは縁遠い者たちだと一般では認識してしまいがちです。
しかし、平安時代末期の源平合戦時には神官の身分でありながらも武装して戦った神官がいました。

その者の名前は金刺盛澄(かなさしのもりずみ)です。

今回は神官と武将の二足の草鞋をやったマルチな人物、盛澄についてまとめてみました。


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神官の武士化

金刺氏は諏訪大社下社の大祝(おおほうり)を務める一族なのですが、平安末期になると次第に武士としての性格を持つようになり、諏訪一帯を支配する武家の棟梁としての一面を持つようになりました。

そのため盛澄は別名、諏訪盛澄とも呼ばれていました。

木曽義仲時代

盛澄は生い立ちが一切はっきりしていません。
そんな盛澄が歴史の舞台に姿を現すのは治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)まで起きた国内の内乱である治承・寿永の乱からです。
木曽義仲と共に平家打倒のために兵を挙げますが、盛澄は大祝でもあるので諏訪大社の御射山神事のために弟の手塚光盛を義仲に預け、帰国しています。
御射山神事では神に供物を捧げることや流鏑馬や犬追物など武芸などの芸能を行いました。

光盛は寿永2年(1183年)に起きた篠原の戦いで平家方の斎藤実盛の討ち取る活躍をしています。

しかし、京都に留まった義仲と鎌倉にいた頼朝の仲がやがて悪くなり、寿永3年(1183)に義仲は光盛と共に討たれてしまいます。
盛澄は従軍していませんが、平家の家人であったことや義仲の家臣であったことから頼朝により捕縛され、梶原景時に預けられます。

源頼朝時代

頼朝は盛澄を斬首するつもりでしたが、景時は藤原秀郷流弓術を継承する盛澄の才能を惜しく思い、頼朝に斬首を思いとどまらせます。
盛澄の弓術を見てから斬首をしてほしいと懇願する景時に従い、頼朝は文治3年(1187)、盛澄に鶴ヶ岡八幡宮の放生会で流鏑馬を命じます。

流鏑馬では頼朝は盛澄を試すかのように暴れ馬に騎馬させます。それでも難なく暴れ馬を操っていた盛澄は指定された8つの的を見事全て射抜きました。
しかし、頼朝はそこから射抜いた的の破片と的を立てかけている棒を射抜いてほしいととんでもない要望を金刺盛澄に要求しました。

盛澄はそんな難題を難なくこなしてしまったので、これには頼朝も感服し最終的に盛澄は許され、斬首はなくなりました。
結果的に命を救ってくれた景時には盛澄は恩義の限りを尽くしました。それは形として現れており、下諏訪町には盛澄が建てた景時塚があります。

その後は御家人として活躍しました。
盛澄は主に武家の正月行事である的始や流鏑馬など弓に関わる行事を任されることが多かったみたいです。
盛澄の活躍は建仁3年(1203年)までありましたが、それ以後は記録にもなくなりました。

(寄稿)拾丸

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