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相合元綱とは
謀神と称された毛利元就には武勇に優れた弟がいました。
名前は相合元綱(あいおう-もとつな)といい、「今義経」の異名を持っていました。
源平合戦で名を馳せた源義経と並び立つ存在であるにも関わらず、あまり目が向けていられないのは事実です。
今回は元就の影に隠れてしまいがちな元綱をご紹介します。
元就と共に毛利家を支える
元綱は父、毛利広元と母、相合大方から生まれます。
相合大方は側室であったので元綱は庶子として扱われていました。
元就は異母兄にあたり、非常に仲がよかったと伝わっています。
また、元綱は吉田相合(現在の広島県北部)にある船山城を居城としていたので、毛利元綱ではなく相合元綱として知れ渡っています。
元綱と元就は2人で協力し、永正14年(1517)に起きた後年「西の桶狭間」と言われた合戦、有田中井手の戦いで武田元繁を討ち取る活躍をします。
兄弟関係の崩壊
しかし、2人の良好な関係は大栄3年(1523)に亀裂が入ります。
それは元就の兄、毛利興元の嫡男で毛利家当主だった毛利幸松丸の早すぎる死でした。
9歳で亡くなった幸松丸の後継者は元就に決まるのですが、これに坂広秀と渡辺勝は不満を抱いていました。
そして、尼子家の家臣亀井秀綱の支援もあり元綱を後継者に据えようと画策しました。
翌年の大栄4年(1524)に元綱一派は元就に対して反旗を翻す決意を固めます。
しかし、元就は間者から元綱が謀反を計画している情報を得ると元就からかなり信頼されていた志道広良(しじ-ひろよし)に300人を率いらせ、船山城に夜襲を仕掛けました。
元綱は30人しかいない手勢でしたが、武勇に優れていたので一時は広良たちを押します。
しかし抵抗空しく、元綱は体中を矢で刺され、止めに槍で突かれる最後を迎えました。
また、元綱一派だった広秀と勝は同年に元就によって謀殺されます。
これにより元綱一派は滅ぼされ、元綱の謀反は終息を迎えました。
元綱の謀反を裏で手を引いていた秀綱はこの一件に関わったことにより、元就が尼子家を離反し、大内家へ接近するきっかけを作ってしまいました。
元綱謀殺は後に教訓へ
仲の良かった弟であった元綱を謀反で失った元就は弘治3年(1557)に自身の子である毛利隆元、小早川隆景、吉川元春の3兄弟に当てた三子教訓状の第三条で兄弟が団結することを残しています。
これは最愛の弟を謀殺してしまった元就の経験が強く影響しており、家中の混乱を招くと他大名に付け入る隙を作ってしまい、滅ぼされると警告していたと思われます。
実体験から教訓として兄弟の団結を促すあたり、元綱を失ったことに元就は生涯悔やんでいたのかもしれません。
寄稿(拾丸)
・毛利氏発祥の地はこちら
・妙玖 (毛利元就の正室)とは
・内ヶ島氏理 土砂に埋もれた悲劇の武将 飛騨の一大勢力
・毛利隆元の解説 人物像やネガティブな性格と真の評価は?
・鈴垂城 (鈴垂山城) 亀井秀綱の居城
・その他「捨丸先生」の寄稿記事リスト
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