石田三成は、妻(正室)のことを「うた」と呼んでいた。
「うた」は、宇多頼忠(うだよりただ)の娘。
この父・尾藤頼忠は、信濃守護・小笠原長時の家臣だったが、小笠原家が武田信玄に滅ぼされると、今川義元を頼った。
しかし、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると「うた」の兄・尾藤又八郎は森可成、次兄・尾藤知宣は羽柴秀吉とそれぞれ織田家の家臣に仕えたようだ。
父・尾藤頼忠は、武田信玄が遠江に進出すると、武田信玄に降って、1564年頃には「うた」の姉・山手殿が、真田昌幸の正室になっている。
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父・尾藤頼忠の兄・尾藤知宣も、羽柴秀吉の黄母衣衆・大母衣衆になっていた縁で、武田勝頼が長篠の戦いで敗れたあと、羽柴秀吉の居城・長浜城を訪れて、羽柴秀長の家臣に加わった。
羽柴秀吉の出世と共に、羽柴秀長も出世して大和郡山城100万石になった頃には、羽柴秀長の家臣でも、藤堂高虎に次ぐ13000石の重臣まで登り詰めた。
「うた」は、おおよそ1581年前後と、石田三成が活躍し始めた頃に正室として嫁いだようで、1583年には嫡男・石田重家が誕生しているが「うた」の逸話などはほとんど残っていない。
1589年には次男・石田重成も生まれている。
「うた」の兄・尾藤知宣が九州征伐の際に、羽柴秀吉の不興を買って改易され、後の小田原攻めの際に惨殺されてしまう。
この時「うた」の父・尾藤頼忠は宇多頼忠と改姓して婿の石田三成を頼って身を寄せたようで、1万3000石の所領は返上したようだ。
1595年、豊臣秀次が切腹となった際には「うた」が姫の1人(隆清院)を匿ったと言う。
その後、姫は姉・山手殿(真田昌幸の正室)を通じて、真田昌幸が預かり、のちに真田幸村の側室 = 隆清院となっている。
1600年、関ヶ原の戦いになると、父・宇多頼忠や石田三成の家族とともに佐和山城にて籠城した。
関ヶ原で石田三成が敗れると、徳川家康は西軍を裏切った小早川秀秋らに佐和山城を攻撃させた。
9月17日、佐和山城は東軍に攻撃され、父・宇多頼忠は息子・宇多頼重、石田三成の父・石田正継、石田三成の兄・石田正澄らと共に自害。
「うた(皎月院)」も、石田家の家臣・土田桃雲の手を借りて自害したとされる。享年不明。
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なお、嫡男・石田重家と次男・石田重成は、豊臣家の人質として大阪城にいたが、重臣・津山甚内や乳母らによって密かに逃された。
また「うた(皎月院)」に関しては、佐和山城で死去していなかったという説や、石田三成の刑死後に自害したという伝承もある。
初芽局
一方、石田三成の側室として「初芽局」がいる。
この初芽は、女忍者(くノ一)で、徳川家康が石田三成の側に送り込んだとされる。
実在した女性かどうかはわかっていないが、くノ一(くのいち)でモデルとなった女性はどうも実在したようだ。
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この初芽局は、まっすぐな性格の石田三成に惚れてしまい、徳川家康を裏切って、やがて石田三成の側室(愛妾)となったとされる。
佐和山城落城の際に「うた(皎月院)」などと一緒に自害したとされるが、裏切者の為、徳川側に殺されたともされる他、城から脱出して墓前を弔ったと言う説もある。
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