和泉式部をわかりやすく2分で解説【光る君へ】数々の恋愛遍歴と情熱的な恋歌を残した波乱の生涯

和泉式部

和泉式部とは

和泉式部 (いずみしきぶ) は平安時代中期の女流歌人で大江雅致の娘。
江式部、式部などとも呼ばれている。

2024年NHK大河ドラマ「「光る君へ」では、俳優(女優)の泉里香さんが和泉式部の役を演じられる。

父・大江雅致(おおえ の まさむね) は公卿で越前守。
父の兄弟に大江匡衡(赤染衛門の夫)がいる。
母は平保衡の娘。
和泉式部の誕生は978年頃?と推定される。


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999年頃までに和泉守であった橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚し、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれたようだ。
<注釈> 結婚した女性を実名で呼ぶのは失礼な時代だったため、和泉式部の実名はわかっていない。

橘道貞との間には娘・小式部内侍(こしきぶのないし)を設けている。
彼女もまた

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立

という歌が百人一首に収められている女性歌人であり、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの男性と交際したことが知られている。

結婚した和泉式部は美人だったのか?冷泉天皇の第三皇子・為尊親王(ためたかしんのう)から好意を寄せられ、断れずに関係を持ったようだ。
<注釈> 為尊親王は藤原伊尹の娘・九の御方を妻にしていたが、和泉式部や新中納言とも恋愛関係にあった。

和泉式部は夫・橘道貞からは見放され、身分違いの恋であるとして父・大江雅致からも勘当されている。
ところが、1002年に為尊親王が26歳で病死。
すると今度は同母弟・敦道親王(帥宮)から求愛を受け、敦道親王の正妃(藤原済時の娘)が家出・離婚している。
その他、和泉式部は源雅通、源俊賢?とも一時恋仲になったともされ、 奔放な異性関係から藤原道長より「浮かれ女」と評されている。
また源氏物語の作者・紫式部は「紫式部日記」にて、和泉式部のことを「恋愛に関してはけしからぬ人(感心できない人)」と記載している。

恋愛生活がすでに有名になっていた和泉式部は敦道親王の邸宅にて子・石蔵宮永覚を出産。
しかし、その敦道親王も寛弘4年(1007年)に早世。


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その後しばらくして、和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。
紫式部・伊勢大輔・赤染衛門らとともに宮廷サロンを築いたようだ。

40歳を過ぎた1013年頃、主人・藤原彰子の父・藤原道長の家司である藤原保昌と再婚。
<注釈> 藤原保昌(ふじわら の やすまさ)は武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と称されている。

1020年頃には夫の任地である丹後国に下った。
藤原保昌は左馬頭でもあったため、夫が上京した際に、和泉式部は丹後に留まっていたと言う。

1025年、娘である小式部内侍が若くして死去。
和泉式部は娘の菩提を弔いつつ、書写山・圓教寺の性空上人を訪ね、のち京都に戻ると出家し専意法尼(和泉式部)と号し誠心院に入った。

1027年9月、皇大后・藤原妍子(けんし)の七七日法事に、藤原保昌にかわって玉の飾りを献上。
詠歌を添えたという記事が、和泉式部の生存を伝える最後の記録である。


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恋歌に情熱的な秀歌が多い和泉式部は藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び女流歌人として称されており、和泉式部の多感で清新な和歌は現代に至るまで高い評価を受けている。

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