武田信玄が死の直前に残した遺言の内容とは【武田信玄の墓シリーズ】

甲陽軍鑑に記載されている、武田信玄が死去する直前に残した遺言は下記の通りになっている。

5年以上前から自分の病気が重大であると認識しており、判を書いた白紙を800枚余用意したので、死後に各地から書状が来たらこの紙を使うように。

信玄が病気であるとはいえ、存命であると聞けば、信玄に領国を攻められぬ用心をするのが精一杯であろうから、3年間は自分の死を隠して領国の安全を保つこと。

自分の後継者は武田勝頼の子・武田信勝が16歳になったら家督を譲るので、それまでは四郎勝頼に陣代を申しつける。
しかし武田勝頼に武田累代の旗を持たせてはならない。
孫子の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。

武田信勝が16歳で家督を継ぎ、初陣した際には孫子の旗だけを残し、それ以外はすべて持って出陣せよ。

武田勝頼は前のように大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(武田信豊)に譲ること。
諏訪法性の甲は武田勝頼が着用し、その後、武田信勝に譲ること。


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典厩信豊、穴山信君の両人は信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもりたててほしい。
7歳になった武田信勝を信玄のように重んじて、16歳になったときに家督にすえてほしい。

自分の葬儀は無用であり、遺体は3年後の4月12日に甲冑を着せて諏訪湖に沈めてほしい。

武田勝頼は上杉謙信(上杉輝虎)と和議を結ぶように。
謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるようなことはしないであろう。
まして和議を結んで頼るというのであれば決して約束を破ることはないであろう。
信玄は大人気なく謙信に頼ることをしなかったためついに和議を結ぶことはなかったが、勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りにするのがよい。
謙信はそのように評してよい人物である。

織田信長が攻めてきた場合は難所に陣を張って持久戦に持ち込めば敵は大軍で遠路の戦いであるから、五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労して無謀な戦いを挑むであろうから、その機会に一撃を加えて破れば敵は立ち直ることはできないであろう。

徳川家康は信玄が死んだと聞けば駿河に攻めてくるであろうから、駿河に引き込んでから討ち取るように。

小田原の北条氏政は強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。
北条氏政は信玄が死んだと聞けば、人質を捨てて裏切り敵となるであろうからその覚悟をしておくように。

弟の逍遥軒信廉は今夜甲府に使いに行くといって4人を連れて出るふりをして、従者たちを土屋右衛門尉(土屋昌続)のところに預け輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は病気のため甲府に戻るといえば、信玄と逍遥軒とを見分けることができる者はいないであろう。
下記写真は、塩山駅の北口にある武田信玄の像です。

武田信玄の像

四郎はくれぐれも好戦的に振舞ってはならない。
そして信長、家康の運の尽きることを待つことが重要である。
もし敵が無理な戦いをしかけてきたら、わが領土に引き入れ必勝の決戦を挑むこと。
そのときに皆が一体となって奮闘すれば、信長、家康、氏政の3人が連合してこようともこちらの勝利は間違いない。

輝虎(上杉謙信)については他の者と謀って四郎を苦しめることはありえない。
武勇においては信玄が死んだのちは謙信である。
天下を手にした信長と武勇日本一の謙信、この両人の運が尽きるのを待つこと。

四郎は万事についての思慮、判断、将来への見通しについて信玄の10倍も心するように。
但し敵が侮って挑んできたら甲斐の領内まで引き入れて耐えぬいて合戦をするなら大勝利を得られるであろう。
決して軽率な戦いをしてはならないと馬場美濃守、内藤修理、山県昌景に指示した。

以上が甲陽軍鑑に記載されている武田信玄の遺言です。

武田信玄像

甲陽軍鑑はもともと余り信用できませんので、本当に武田信玄がこのような遺言を残したのか真偽のほどは不明ですが、葬儀は死の3年後に武田勝頼が行っており、武田勝頼も家督は子の武田信勝が成人するまでの代行と心得ていたようですので、それら重要点を理解した上で甲陽軍鑑に記載された事は間違いありません。

典厩信豊(武田信豊)は、武田信玄の弟・武田信繁の子で、武田信玄が亡くなった当時はまだ24歳でしたが、顔だちは似ていたのでしょう。
影武者にしたと見受けられます。
 
しかし、私が気になった点は下記の3点ほどです。

天下を手にした信長

我々が学ぶ日本史では、織田信長は天下統一を目前に、明智光秀に討たれたと学んできましたが、織田信長の時代の「天下とは」の解釈として、天下の範囲は「近畿地方」だけだと言う事が、この武田信玄の遺言からも読み取れます。
すなわち、武田信玄が亡くなる頃には織田信長は近畿を統一していましたが、この近畿の範囲が、京の統治権が及ぶ範囲である「天下」だったのだとわかります。
織田信長の「天下布武」は、近畿を武力で統一したと言う意味、もしくは近畿から更に全国を武力を用いて自分の統治を進めると言う意味だったことが裏付けられますね。
ちなみに、全国統一が天下になってしまったのは、豊臣秀吉と徳川家康が北海道と沖縄をのぞく全国を支配できてしまったと言う事に他なりません。

土屋右衛門尉

土屋右衛門尉(土屋昌続)は、武田信玄の仕えた側近です。この頃、29歳くらいだと思われますが、遺言書に名が出るくらいですので、武田信玄の思いを良く理解できている家臣として、かなり信用されていたのでしょう。
現在、甲府に武田信玄公の墓がありますが、その墓がある場所は、かつて土屋昌続の屋敷があった場所で、江戸時代にそこから「石棺」が発見され、武田信玄の墓と認定される事となりました。
土屋右衛門尉の名が、甲陽軍鑑が編さんされたと言う江戸初期の段階から武田信玄の遺言に出ているのであれば、土屋昌続の屋敷跡から1779年に武田信玄の墓が発見されたのは、土屋昌続と武田信玄の親密性を裏付けるものとなります。

武田信玄の墓はこちら

謙信は男らしい武将であるから

この一文、非常に気になりますね。
毘沙門天の化身として名が轟く上杉謙信の事を良く理解していた武田信玄が、男性である戦国武将を、わざわざ「男らしい」と記載しますかね?
上杉謙信の事だけを語るのであれば、不自然ではありませんが、徳川家康・織田信長・北条氏政と言った歴史に名を残している武将と共に語る場面で、謙信は男らしいと一人だけを「男」だと表現しているのには、どうしても引っ掛かります。
承知の通り、上杉謙信は生涯に渡って妻を娶らず、当然、側室もおらず、子供もいません。
その反面、美男子を好んだとされ、越後で歌われた「ごぜ唄」には、上杉謙信の事を「男もおよばぬ大力無双」と表現されています。
女性に対して「男らしい」「男も及ばない」と言っているのであれば、しっくりくるのですが・・。

また、上杉謙信は、毎月10日頃に腹痛を起こして寝込み、合戦中でも10日頃はに城に帰ったりしています。
要するに1ヶ月周期で体調不良になるので、生理が重かった?とする見方もあります。
スペインの船乗りゴンザレスが国王に提出した、1571年から1580年にかけての佐渡金山の報告書には、上杉景勝の叔母?が佐渡金山を開いたとあります。
そのため、この叔母は上杉謙信だとする解釈もあります。
そして、この武田信玄の「謙信は男らしい武将であるから」と言う表現、気にならずにいられません。

いずれにせよ、武田勝頼のその後の行動を見る限り、この遺言をかなり忠実に守ったのではないでしようか?
しかし「好戦的に振舞ってはならない」と言う点だけは、家臣団を統率しなければならない関係もあり、反感を持つ家臣もいた以上、苦慮した結果、まだ蓄えがあるうちに領土拡大路線へと進んだのでしょう。
でも、遠方で戦争をするには、武田信玄が信濃などで戦をしていた時よりも、莫大な戦費が必要となります。
金山も枯渇し、軍資金不足に陥った武田勝頼の領土経営は、増々厳しい事であったと察するに至ります。
その焦りから30歳の武田勝頼は「好戦的に振舞ってはならない」と言う遺言だけは守れず、武田信玄の死から2年後である1575年、織田信長や徳川家康に決戦を挑む形になってしまったのかな?と感じております。

武田信玄についてはこちら
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駒場の長岳寺~武田信玄火葬の地(武田信玄公灰塚供養塔)
武田信玄 ~戦国最強の兵法家~ 【戦国人物伝5】
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