1487年に生まれた横田高松(よこた-たかとし)は、近江・甲賀の出身で、佐々木氏の一族である六角家の家臣であったともされる。
武田信虎のときに甲斐に赴いて武田家の家臣に加わった。
弓矢が得意だったようで、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で活躍。
横田十郎兵衛、横田備中守とも称し、敵の動きを察知し先読みすることに優れており、武田の五名臣の1人、武田二十四騎の1人として数えられる。
そして、武田信虎の甲斐国統一にも大きく貢献した。
1546年8月、信濃佐久の志賀城攻めでは城の水の手切りに成功。そして、関東管領・上杉憲政が派遣した後詰(増援)部隊を撃退した。
1548年、上田原の戦いにて板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄は、劣勢を挽回するため1550年9月9日に、村上義清が守備する砥石城を包囲。
武田信玄は力攻めを行い、横田高松も攻撃開始したが、難攻不落の戸石城であったため、武田勢はやむなく退却を始めた。
そこを村上義清は撃って出てに襲い掛かったため、武田勢は大混乱となった。(砥石崩れ)
この時、横田高松は殿軍として村上勢を一手に引き受けて、討死した。享年64とされている。
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武田信玄はこの死を嘆き近習の者に「武篇の者になろうとするなら、原美濃(原虎胤)、横田備中(横田高松)のようになれ」と言ったと伝わる。
なお、原虎胤の長男が横田高松の婿養子に入り、横田康景(横田綱松)と称して名跡を継いで、武田信玄の死後には武田勝頼にも引き続き仕えたが、長篠の戦いで討死している。
その後、横田家は横田康景(横田綱松)の子、横田尹松が5000石と言う高禄で江戸幕府の旗本となった。
横田高松の墓
横田高松の墓は甲斐・善光寺にある。
下記の墓標が横田高松の墓とされるものだ。
甲斐・善光寺の境内の中にあるのだが、案内板などもなくわかりにくいので、解説を加えて置く。
金堂の東側に回って「収蔵庫」と言う非公開の建物の北側にひっそりとある。
木々が茂っているところで、収蔵庫のすぐ脇(北側)となる。
下記の地図の場所を参考にして頂きたい。
あと、甲斐・善光寺には豊臣秀吉の家臣・加藤光泰の墓もあるので、合わせて手を合わせよう。
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