竹林院とは~九度山でも献身的に支えた真田幸村の正室である安岐姫

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竹林院(ちくりんいん)の生年は不明。
本名は利世(りよ)、安岐姫ともあるが、小説などでの創作名であり、一般的には不明とされている。
大谷吉継の娘とされるが、妹・姪とする説もある。
大谷吉継の妻(正室・側室)の名前は不明である為、竹林院の母の名も不明で、生まれた年も分からない状況となっている。

竹林院は、1594年頃に、真田幸村(真田信繁)の正室として嫁いだ。
真田幸村は1594年11月2日に、従五位下左衛門佐に叙任され、豊臣姓を下賜されているので、その頃だと推測でき、当然、豊臣秀吉の口添えがあったことだろう。

豊臣秀吉が亡くなり、石田三成徳川家康関ヶ原の戦いへと進むと、真田幸村は父・真田昌幸と共に西軍・石田三成に協力。
兄・真田信之は東軍・徳川家康に味方し、真田家は2つに割れた際、竹林院がどこに住んでいたのかなどは分かっていないが、真田昌幸の正室・山手殿(寒松院殿)は大阪城で石田三成の人質となっていた事から、恐らくは同様だったものと推測する。


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関ヶ原の戦いで、西軍が敗れると、真田家の重臣・河原綱家が竹林院と真田昌幸の正室・山手殿(寒松院殿)を救出したようで、上田城に帰還したようだ。

本多忠勝らの助命嘆願により、命だけは許された真田昌幸・真田幸村(真田信繁)は、1600年12月13日、竹林院と16名の家臣は九度山に幽閉されることになったが、真田昌幸の正室・山手殿は、真田信之に引き取られ、上田城に留まった。

1601年7月24日には、嫡男・真田幸昌が誕生。
竹林院(利世)は真田幸村にとって、最初の妻ではなかったようだが、嫡子を産んだ為に正室扱いになったともされている。

真田庵

真田幸村と竹林院は、九度山(真田庵)では困窮し、竹林院は上田地方の紬技術を応用して真田紐を考案し、家臣たちに行商させて、生計を支えたと言う。

1614年、淀殿豊臣秀頼らが、徳川家康との関係を悪化させると、豊臣家は浪人を募集した為、真田幸村は九度山を脱出。子の真田幸昌も同行して大阪城り、真田丸で奮戦した。

竹林院は、子の真田幸昌に「再び生きて会いたいのは山々なれども、私達のことは案ずることなく、御父上様と生死を共になさいますように」と送り出したと伝わるが、その後、京に避難したようだ。

1615年5月7日、大坂夏の陣で真田幸村・真田幸昌が討死すると、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟が、真田幸村の妻子を捜索。
5月19日、紀伊・伊都郡にて、竹林院と娘・あぐりは、3人の家臣と共に隠れていたのを発見され、5月20日に京都滞在中の徳川家康に引き渡された。
しかし、罪は許され、以後は京都で、娘・おかねの夫・石川貞清(500石)の保護を受け、共に暮らしたと言う。
滝川一積が引き取ったとも?

1649年5月18日、竹林院は京都で亡くなった。
法名は「竹林院殿梅渓永春大姉」
石川貞清は京都・妙心寺に、真田幸村・竹林院の塔頭(大珠院に五輪塔)を建立した。
墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。

最近になって、大谷吉継の書状から「小石」または「徳」と言う名が、竹林院と大谷吉継の姉妹である下間頼亮の正室のどちらかと言う可能性が出てきている。

NHKの大河ドラマ「真田丸」で、竹林院は「春」と言う名で登場し、女優・松岡茉優(まつおか-まゆ)さんが演じる。

竹林院が産んだとされる子は下記のとおり。

女子 あくり – 蒲生郷喜室
長男 真田幸昌(真田大助)
女子 阿昌蒲片倉定広
女子 おかね – 石川貞清室
次男 真田大八(片倉守信)仙台真田家初代当主

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