大坂の陣のあとの真田信繁(真田幸村)の家族動向のまとめ  


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この章では、大坂夏の陣で討ち死にした真田幸村の家族のその後について記載しておきたい。

1615年5月7日に大坂夏の陣で真田信繁(真田幸村、享年49)が戦死すると、徳川家康に命じられた紀伊領主・浅野長晟は真田信繁の室・竹林院を捜索し、5月20日に紀伊・伊都にて娘のあぐりとともに3人の侍に警護されて隠れていたのを発見。
5月24日に京都の徳川家康に引き渡したが、その後、無罪・放免となり、その後は七女・おかね(於金殿)の嫁ぎ先である石川貞清の援助で京都で暮らしたと言う。
1649年5月18日に竹林院は京都で亡くなった。

長女・阿菊(お菊)(すへ)は上田で生まれたとされ、母は真田家臣・堀田興重(堀田作兵衛興重)の娘とされる。九度山蟄居の際にも上田にて堀田興重に育てられ、小県郡長窪宿の郷士・石合重定(石合十蔵重定)に嫁いだ。1642年没。なお、堀田興重は大阪の陣で真田信繁に従い、大坂城で討死している。

次女・於市も上田生まれで、母は真田家臣・高梨内記の娘とされる。
九度山に同行したが病死した。
高梨内記も大阪の陣で真田信繁に従い、大坂城で討死している。

三女・阿梅の母も高梨内記の娘とされる。
大坂落城の際、城中から白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖にした16歳ほどの阿梅が、仙台藩・伊達氏の重臣で白石城主である片倉重綱の陣の前へ出てきたので、阿梅は捕まり、連れて帰って侍女とされた。
そして、のちに阿梅は片倉重綱の継室となったのである。
のちの泰陽院。
この話には諸説あり、真田信繁が片倉重綱の武勇と英明に感じて、わざと片倉重綱の前に阿梅を出して後事を託したと言う説や、武名高き真田信繁の娘を求めていた片倉重綱が、落城の際、獲得したと言う説もある。
いずれにせよこの縁故で、西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延びていた真田信繁(真田幸村)の次男・真田四郎兵衛(真田大八)も白石城主・片倉重長に保護されたと考えられ、真田信繁の旧臣たちも片倉家の家臣となった者が多く出た。

次男・真田四郎兵衛は西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称した。
しかし、その後、徳川を苦しめた真田信繁の子が生きているとの噂が立った。
そのため、子供の頃に石合戦で負傷し1624年には既に他界していると、嘘の情報を公式記録にしてしまうなど存在を隠す行動も見られる。
1640年には江戸幕府から伊達家に真田守信の出自の調査命令が出た際、伊達家は真田守信を真田信尹の次男・政信の子だと偽証報告している。
その際、真田守信は片倉守信(かたくらもりのぶ)と改名し、仙台藩士として300石を与えられた。
1670年10月30日に死去。享年59。片倉守信の子・辰信の代において「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受け、正式に真田姓を名乗る事が許され、子孫は仙台・真田家として今なお続いている。

四女・あぐり(あくり)の母は、真田幸村の正妻とされる越前・敦賀城主で50000石の大谷吉継の娘(竹林院)。
あくりは大坂落城後、徳川家康の使番・滝川一積(滝川一益の孫)の養女となった。
滝川一積の妻が、真田信繁の妹であった縁からと考えられる。
この養女の件は、徳川家の重臣・本多正純も認めていたようだ。
その後、あくりは会津の蒲生忠郷の重臣で、三春城主・蒲生郷喜の子の妻となった。
しかし、後年に敵側だった娘を勝手に妻に迎えたと言う理由から、蒲生忠知家では内紛の一因となり、滝川一積は改易処分となる。
蒲生家が断絶したあとは、日向・延岡に移ったが、その後は不明。

嫡男・真田幸昌は真田幸村の本文中でも触れたとおり、大阪冬の陣にて自害。13歳~16歳前後であったと考えられ、余りにも若い命であった。

五女・なほ(御田姫)の母は、真田信繁の側室・三好秀次の娘で、1614年に九度山で生まれた。
大坂落城を前にして、三好秀次の娘である母と、なほは京都に住む豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀尼の許へ避難。
日秀尼は三好法印一露の妻で豊臣秀次の母である。
従って御田姫の曾祖母にあたる。
御田姫は成人して岩城宜隆(岩城但馬守宜隆)の継室として嫁いだ。
岩城氏は秋田城25万石の佐竹氏の支流で、出羽・由利郡で125000石を領していたが、会津成敗の際、出兵しなかった為、所領没収。
その後、1615年8月に信濃・川中島(木島平)で10000石で復活し、その後10000石加増され、亀田藩に転封。
御田姫は1628年1月15日に3代藩主となる岩城重隆(岩城伊予守重隆)を生んだが、1635年に32歳で没した。

六女・阿菖蒲(おしよふ)の母は大谷吉継の娘で、九度山で生まれた。
大阪の陣後は、姉の阿梅に引き取られ、青木次郎右衛門の妻になった。
のちに再婚して伊達政宗の家臣・田村定広(後に片倉定広に改姓)に嫁ぎ、1635年没した。

七女・おかねの母も大谷吉継の娘で、九度山で生まれた。
関ヶ原役の後浪人し、京都で宗休と称して茶人・商人として活動していた、元・尾張の犬山城主で12000石だった石川貞清(石川備前守貞清)に嫁いだ。
宗休は京都で竹林院を援助した他、大珠院に真田信繁夫妻の墓を建てている。

三男・真田幸信の母は三好秀次(豊臣秀次)の娘(隆精院)とされるが、真田信繁討死の2ヵ月後に京都で生まれた。
豊臣秀次の旧姓である三好姓を称し、幼名は三好左次郎と称した。
その後、姉である御田姫の嫁ぎ先の岩城宣隆に引き取られ、、元服すると三好幸信(三好左馬之介幸信)と改名して出羽・亀田藩にて380石で家臣となった。1667年没。

四男・真田之親は詳しい生まれの経緯は不明。真田信繁が九度山蟄居中に百姓の娘に産ませた子とも伝わる。
大坂夏の陣のあと、讃岐に逃れて細川国弘(石田国弘)の保護を受け、その後養子になったと言う。
「全讃史」では、真田信繁が大坂から脱出して讃岐に至り、その地で生まれた子が真田之親であるとされている。

真田栗毛は、大阪夏の陣で真田信繁(真田幸村)が騎乗していたとされる名馬。
大分に真田栗家の墓がある。

?男・真田幸晴は、真田幸村の子で、乳母や家臣と共に大阪から九州を目指して落ち延びたとする伝承がある。
しかし、暴風雨にあい、現在の山口県周南市櫛ケ浜に漂着し、吉村、河村と姓を変えながら、栗屋地区で鍛冶屋を営み、生涯を終えたと言う伝承が地元に残っている。

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