原田直政(塙直政)とは
塙直政(ばん-なおまさ)は張国の春日井郡比良村出身(大野木城)とされており、馬廻りとして織田信長に仕え、赤母衣衆にも抜擢されていた。
通称は塙九郎左衛門、備中守。別名は塙正勝、塙重友。
妹・塙直子(原田直子)が織田信長の側室となっており、1554年に生まれた庶長子・織田信正の母であるとも言われる。
1556年に嫡男・塙安友(ばん-やすとも)が誕生。
塙直政の後妻は柴田勝家の娘と伝わる。
1568年、織田信長が入京すると、塙直政は吏僚として畿内の政務を担当した。
1574年、織田信長が蘭奢待(らんじゃたい)と言う、東大寺・正倉院に保管されている天下随一の香木を削り取った際には、柴田勝家・丹羽長秀らと共に塙直政が御奉行を務めている。
1574年5月、山城の南半分(南山城)の守護職となり、1575年3月には大和守護も兼務したと言うので、異例の出世をしており、かなり重用されていたことが伺える。
この年に羽柴秀吉、明智光秀、簗田広正らと共に叙任されてると備中守を任ぜられ、九州の名族である原田の姓を下賜された。
こうして、原田直政(はらだ-なおまさ)と称するようになる。
信長公記の中では、鉄砲奉行を務めた長篠の戦いまで塙九郎右衛門とあり、朝倉攻めのあとは原田備中守と記載されている。
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1576年4月、原田直政(原田備中守直政)は、明智光秀・荒木村重・細川藤孝・三好康長らと共に石山本願寺攻めに出陣し、大和衆・山城衆といった織田勢の主力として西の三津寺攻めなどを担当した。
しかし、本願寺勢の伏兵の奇襲を受けて討死。雑賀衆の鈴木重秀勢に討ち取られたと言われている。
この時、豪傑・塙安弘(ばんやすひろ、塙喜三郎)、塙小七郎などの一族や、蓑浦無右衛門・丹羽小四郎など多くが討死し、敗戦の責任を取る形で原田家(塙家)は没落した。
塙直之と言う武将が、大坂の陣にて討死しているが、原田直政(原田備中守直政)の一族であるのかは不明である。
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