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三村家親(みむら-いえちか)は、戦国時代の1517年に備中成羽の鶴首城主である三村宗親の子として産まれました。
母は不詳ですが、正室が産んだ子となりますと、正室・三好氏(阿波?)の娘(名前不詳)となります。
なお、三村家親の正室も、阿波三好氏の娘(名前不詳)となります。
三村氏はもともと星田が本拠でしたが、1533年、三村家親は成羽の庄を奪取し、鶴首城(成羽城)を改良すると拠点を移し、三村家はここから勢力を更に拡大して行きます。
この頃の備中の国人の多くは、月山富田城の尼子晴久を頼っています。
そんな中、三村家親は早い段階から尼子を見限り、安芸・吉田郡山城の毛利元就を頼りました。
1543年、毛利勢として大内義隆の出雲攻めにも参じましたが、この合戦は大敗北となり、三村家親も命からがら備中に戻っています。
その後、尼子家が盛り返しますが、それでも、引き続き毛利家から離れることはありませんでした。
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この戦略が功を奏して、毛利の後ろ盾を得た三村氏は、1553年には庄氏の猿掛城を攻撃します。
この時、猿掛城は落とせませんでしたが、庄為資は事実上降伏して、三村家親の長男・三村元祐を穂田実近の養子に迎え、猿掛城主にすることで和睦しています。
備中における尼子勢力を次々と攻略し、永禄3年(1560年)に庄高資を攻略すると、本拠を備中・鶴首城から備中松山城に移しました。
この時、鶴首城は一族の三村親成に与えています。
こうして、三村家親は備中をほぼ統一するまで拡大しました。
また、勢力を争っていた石川氏・上野氏などとは縁戚関係にて同盟をしました。
しかし、庄氏だけは完全に取り込めず、1564年、庄高資・庄勝資が離反しています。
このように、次第に、浦上宗景の重臣に過ぎない宇喜多直家が急成長して脅威となったため、何度か合戦に挑んでいます。
また、1564年には美作高田城主、三浦貞勝を攻めると滅ぼしました。
この時、三浦貞勝の正室・お鮮(円融院)は、子の三浦桃寿丸と落ち延びたあと、備前・沼城主の宇喜多直家と再婚しています。
このように順調と思える三村家親でしたが、宇喜多直家の非道にて夢は敗れます。
永禄9年(1566年)2月5日、美作攻略のため、出陣して途中、陣を構えた興善寺にて評議を行いました。
しかし、宇喜多家の息がかかっていた遠藤秀清、沿道俊通の兄弟が、短筒の火縄銃を興善寺にて発砲。
三村家親は死去しました。享年50。
これは、当時としては非常に珍しい鉄砲による暗殺でした。
下記がその興善寺(現在は廃寺)があったとされる場所です、貯池の奥に、三村家親の墓があります。
池と畑の間を入っていけば、接近できるのですが、道路脇には、動物よけのようなフェンスが巡らされていました。
そのため、そのフェンスを乗り越えるのは遠慮して、望遠にて撮影させて頂いた次第です。
遠藤兄弟は鉄砲の名手だったと言います。
出身は阿波でしたが、備中などでも放浪していたようで、三村家親とは顔見知りだったと言います。
宇喜多直家から暗殺するように命を受けると「失敗した折には生きて帰れぬであろうから、残された家族を宜しくお願いしたい」と託したとされています。
要するに、成功しない覚悟もあったと言うことですが、三村一族が軍議を開いていた夜の興善寺に忍び込んで暗殺を実行しました。
遠藤兄弟は銃弾を命中させたと報告しましたが、最初、宇喜多直家は信用しなかったと言います。
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三村家親の弟・三村親成が、陣中の混乱を防いで、三村家親は体調不良という事にし、軍勢を指揮すると、見事、備中・松山城に引き返したからです。
その後、三村家親の死を公にしたため、ようやく宇喜多直家は暗殺成功を認めたと言います。
そして、遠藤秀清は宇喜多直家から徳虎城にて1000石を与えられました。
なお、長男・三村元祐(庄元祐)は、すでに庄氏に養子として出されていたことから、次男の三村元親が跡を継いで、宇喜多家へ攻撃に出ます。
三村家親暗殺の地
興善寺跡にある三村家親の墓(暗殺の地)ですが、岡山にしてはかなりの「山奥」にありました。
軍勢もそうですが、こんな山の中によく来たなと言う感じです。
道路は舗装されている、岡山県の県道456号の脇となります。
当方のオリジナル地図にて場所も示しております。
しかし、この県道、本当に県道なの?というくらい、スゴイ道でした。
普通車が1台通行できる狭い山岳路で、すれ違いの退避場所も、極端に少ないのです。
前からクルマが来たら、どうしようか?と、常に恐怖と戦いながら運転しました。
幸い1台もすれ違うことはなかったので、結果的には無事に済みましたが、できれば、2度と行きたくないところです。
もし、三村家親のお墓参りするのであれば、成羽の源樹寺か、高梁の頼久寺がお薦めです。
頼久寺は三村元親の記事にてご紹介していますので、ここでは、成羽の源樹寺をご紹介してみます。
成羽・源樹寺
源樹寺は永禄9年(1566年)に、三村元親が父・三村家親の菩提を弔うために建立した寺院になります。
境内からは離れた北東側の墓地の一角に三村家親と三村元親の墓碑があり、案内板も設置されています。
場所がわかりにくいです。
下記写真の崖下にありました。
正確な場所は、よければ、当方のオリジナル地図にてご確認願えますと幸いです。
・備中松山城~雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿を見たい
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