井伊直盛(いい-なおもり)は、今川家に属する井伊谷城主・井伊直宗の子として1506年に生まれた。
詳しい事は不明だが、1530年頃に井伊直盛(井伊信濃守直盛)は新野親矩の妹・祐椿尼(名前不詳)を正室として、娘・次郎法師(井伊直虎)が誕生したものと推測する。
この父・井伊直宗が1542年8月、三河・田原城の戦いで討死したため、37歳の井伊直盛(井伊信濃守直盛)が家督を継いだ。
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新野親矩(新野左馬助)の妹が祐椿尼(友椿尼とも、松岳院)だが、2017年のNHK大河ドラマでは「千賀」と言う名前で、財前直見さんが演じる。
祐椿尼は「ゆうちんに」と読む。
井伊直盛には跡継ぎとなる男子がいなかったため、弟・井伊直満の子・井伊亀之丞(井伊直親)を婿養子として迎え、次郎法師(井伊直虎)と結婚させようと考えた。
下記は、井伊家居館跡となる。
しかし、井伊家の筆頭家老である小野道高(小野政直、小野和泉守)はこの継承を快く思わず、井伊亀之丞(井伊直親)の父・井伊直満と、その弟・井伊直義が武田信玄と勝手に戦った(内応した?)と、今川義元に報告。
その結果、今川家から謀反の疑いをかけられ、井伊直満と井伊直義の2人は、1544年12月23日に自刃させられた。
そのため、自害した井伊直満の子・井伊直親(10歳)にも追ってがかかり、信濃に落ち延びて身を隠した。
次郎法師(井伊直虎)は出家して祐圓尼(ゆうえんに)と称している。
1554年に小野道高(小野政直、小野和泉守)が死去すると、1555年、逃亡していた井伊直親は今川家の家臣に復帰。
ただし、信濃での逃亡を援助した井伊一族・奥山親朝の娘を正室に迎えており、祐圓尼(井伊直虎)はそのまま生涯独身を貫いている。
1559年に尾張統一を果たした織田信長を攻略するため、今川義元は1560年5月に大軍を動員して尾張へ侵攻。
この時、井伊直盛は今川勢の本隊5000に加わって参陣しており、二俣城主・松井宋信と共に先鋒を担当している。
そして、桶狭間の戦いとなった。
豪雨の影響にて休息中に、織田信長勢の急襲を受けた今川勢は混乱をきたして総崩れとなり、今川義元が討死。
今川家の家臣も松井宗信、久野元宗、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳らが討死した。
この時、今川義元本陣の前衛を守備していた井伊直盛は、織田信長の軍勢の突撃を受けて、壮絶な戦いとなっていた。
井伊直盛に従っていた有力家臣も16人がことごとく討ち死にしている。
最後と覚悟した井伊直盛も、奥山孫一郎(奥山朝利の子)に介錯を頼んで自刃した。享年54(推定)。
なお、一族の家老・中野信濃守が井伊谷城を預かるように遺言を残したとされている。
井伊直盛は、井伊家の菩提寺である龍泰寺に葬られ、寺名は井伊直盛の法号と同じ「龍潭寺」にと改名された。
そして、南渓和尚により16名の家臣と共に井伊直盛の葬儀が執り行われている。
井伊直盛の法名は龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士。
下記が龍潭寺の井伊家墓所にある井伊直盛の墓。
また、龍潭寺には井伊直盛と共に討死した家臣16名の墓もある。
下記がその桶狭間の戦いにて討死した井伊家の家臣の墓。
破損もしているように風化が激しいことから、戦国時代の墓石であることがわかる。
井伊家の家督は井伊直親が継ぎ、いよいよ今川氏真を見限って、徳川家康に接近するようになる。
次郎法師の母・祐椿尼は、井伊直盛の死後、松岳院と称して龍潭寺の南側に住まいを得ていたようで、次郎法師と共に晩年を過ごしたようだ。
そして、1578年7月、祐椿尼(松岳院)は死去した。(松岳院殿壽窓祐椿大姉)
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