井伊直親とは~井伊家を継ぐも悲運となる生涯と亀之丞が逃れた東光院や松源寺

松源寺

井伊直親とは

NHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」にて、故・三浦春馬さんが演じた井伊直親(いい-なおちか)は、井伊谷城主・井伊直平の3男・井伊直満の子として1535年に生まれた。
母は鈴木重勝の娘と推定される。
高瀬と言う娘に関しても触れてみたい。

1542年8月、井伊直平の嫡男・井伊直宗が討死し、その子である井伊直盛(井伊信濃守直盛)が井伊家を継いだ。


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井伊直盛には男子がいなかったため、井伊直満の子である井伊亀之丞(井伊直親、8歳)を、娘の次郎法師(井伊直虎、6歳?)と結婚させて婿養子に迎え入れて、将来、井伊家を継がせようと考えた。

しかし、この相続を望まない今川家の与力・小野道高(小野和泉守、小野政直)が、今川義元に讒言する。
そのため、井伊直親の父・井伊直満と、その弟である井伊直義が、甲斐の武田信虎に通じていると、謀反の疑いをかけられて、2人は天文13年(1544年12月23日)に、自刃へと追い込まれてしまった。

そのうえ、父を失った井伊亀之丞(井伊直親)にも追っ手が迫ったため、家人・今村正実(今村藤七郎正実)は10歳の亀之丞を叺(かます)に隠して運びだす。

下記は、井伊谷城の北になる、井平城近くの旧鳳来寺街道沿いの黒田峠近くにある「仏坂」。

亀之丞の隠れ岩

今村藤七郎と亀之丞は仏坂近くの黒田峠付近にて一夜を明かしたのち、渋川・東光院に逃れた。
下記はその東光院となる。

渋川・東光院

この東光院がある渋川の地は、井伊谷の北方にあり、井伊家の分家となる渋川・井伊家が治めていたようだ。

渋川城

その渋川・井伊家の本拠地は上記と下記の渋川城となる。

渋川城跡

写真ではわかりにくいが、奥の高い山ではなく、手前の小高い丘が渋川城跡となる。
渋川城跡の北側には、井伊直親の墓も含めて8柱となる渋川・井伊家の墓所もある。

井伊直親の墓

話を戻すが、東光院に逃れていた井伊直親(亀之丞)は、東光院の住持・能仲に案内されて更に逃亡する事になる。
逃れた先は、100km以上も北になる、長野県の飯田市に近い高森・松源寺(信州伊那郡市田村)となる。
その途中、渋川の大平にて国境警備をしていた今川家の家臣・右近次郎と言う弓の名人に狙われるも、かろうじて逃れたともされる。

高森・松源寺

高森・松源寺を開山した文叔瑞郁禅師は、当時の松岡城主である松岡貞正の弟で、布教で遠江・三ヶ日を訪れた際に、井伊谷城主・井伊直氏から龍潭寺の前身となる自浄院に招かれて住持となったことがあったようだ。
更に、1532年に井伊直平が、文叔瑞郁禅師の弟子である黙宗瑞淵禅師を招いて、龍潭寺を創建してもらうと言う縁があったと言う事になる。
ここ高森の当時の領主は松岡氏であり、現在、松源寺はその松岡氏の居城となる「松岡城」の入口にある寺となる。
桜の名所でもあるようだ。

松岡城

井伊家の家臣・今村正実(今村藤七郎正実)が10年間養育したと言うが、そもそも松源寺は松岡城主・松岡氏の菩提寺でもあるため、高森領主・松岡頼貞(または松岡貞利)の保護があったのは言うまでもないだろう。
ただし、松岡城と松源寺を見学させて頂いて帰ってから、戦国時代に松源寺がここにあったのか?と言う疑問が湧いてきた。
のち、織田信忠が攻めてきた際に武田勢との戦闘で松岡城は焼けたとは記録が無いようだが、松源寺は他の高森にあった寺と一緒で焼失した可能性があることを知ったからである。


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この件は調べるのに大変苦労したが、どうやら昔の松源寺はもっと山寄りの場所「牛牧寺山」という寺山地籍に、明光寺と一緒にあったようで、あとからこの松岡城の城域に移転したようだ。
地籍寺山は、中央自動車道を越えた北西で、松岡城からは約2km離れた場所であり、跡地に木の標柱が建っているようである。
これが正しければ、亀之丞と今村藤七郎の2人は、残念ながら写真で紹介した松源寺がある場所で約10年過ごしたと言う事ではないが、まぁ、1度や2度くらいは松岡城にも来た事はあっただろうと納得する。

松源寺

亀之丞は「青葉の笛」を愛用したが、高森にて笛を教えたお千代と深い仲になり、一子を儲けたとの話も伝わる。
この千代は、嶋田村(飯田市)の代官?の娘で、子は2人できたと言う話もある。
ご子孫は飯田井伊家として江戸時代から嶋田屋麹店を営んであり、亀之丞が井伊家の証として残した短刀が伝わる。

その生まれた子が、高瀬と称して井伊谷を訪れると言う、謎の娘の設定が大河ドラマ「おんな城主・直虎」であるようだ。

高瀬姫に関してはこちら

これら井伊直親にゆかるある観光スポットは下記のGoogleオリジナルマップでも場所をご確認いただけるようにしてある。

井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・オリジナル地図

小野政直(小野和泉守)が没した翌年の1555年になると、20歳になった井伊直親は井伊谷に戻ってくる。
下記は、亀之丞が信州から戻る際に、青葉の笛を奉納したと伝わる、渋川・六所神社(寺野・六所神社)となる。

寺野・六所神社

青葉の笛は現存し、寺野・六所神社では4年に1度、特別公開されるが、南北朝時代に宗良親王を井伊谷に井伊家が迎えた際に、宗良親王が奉納したとも考えられている。

井伊谷に戻った亀之丞(井伊直親)は、今川家への帰参を許されて、井伊一族・奥山親朝の娘(奥山朝利の娘)を正室に迎えた。
奥山親朝の娘(奥山朝利の娘)の名は「ひよ」とする文書もあると言う。
結婚した奥山親朝の娘(奥山朝利の娘)と井伊直親は、井伊家の跡取りではあるが、まだ当主ではなかったので、祝田の地に屋敷を構えて住んだようだ。
※戻った時期や結婚した時期などには諸説ある。


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井伊家に戻ることが今川家にも許された井伊直親で安泰に思えたが、1560年、今川義元が討たれた織田信長との桶狭間の戦いにて、井伊家当主・井伊直盛も討死する。

そのため、男子がいなかった、その井伊直盛の跡取りとして、復帰していた井伊直親(井伊肥後守直親)が井伊家の家督を継ぐことになり、第23代当主となった。

井伊直親

なお、1561年2月19日に、井伊直親の嫡男である井伊虎松(井伊直政)が井伊谷にて誕生している。

しかし、今川義元が討たれて混乱する今川家中で、三河の松平元康(徳川家康)が自立する動きとなり、織田信長と清洲同盟を結んだ。
この事で、西三川の井伊家や引馬城主・飯尾連龍らは動揺を隠せず、井伊家の家中にも影響する。

井伊直親が家督を継いだことを快く思わない、井伊家の家臣・小野直政(小野道高の子又は小野一族の小野但馬守)は密かに駿府へ赴き、25歳の今川氏真に対して、井伊直親が松平元康と手を組もうとしていると讒言する(事実をまげて言う)。
びっくりした今川氏真は直ちに討伐軍を送ろうとしたが、井伊直親と懇意だった新野親矩(新野左馬助)が「まずは事実か確かめるべき」と助言し、謀反を疑われた井伊直親は駿府に呼ばれる事になる。

井伊直親の像

井伊直親は呼び出しに応じて、弁明するべく主従20騎にて東へと向かった。
そして、途中の掛川城下に差し掛かった、1562年12月14日、今川家の重臣である掛川城主・朝比奈泰朝の軍勢200名に取り囲まれて、井伊直親は殺害されてしまった。(享年28)

朝比奈泰朝は、今川氏真の命を受けて、数百人の軍勢にて襲撃したとあり、主従の19人も掛川で命を落とした。
襲撃地点はよくわかっていないが、掛川城下の東海道であろう。
十九首と言う地名も旧東海道にある。
そして、掛川城下には平将門十九首の首塚がある。

19首塚・掛川

井伊直親と19首塚との関連性まではつかめないが、もしかしたら、19首を供養するため、今川家への建前、公式に供養できない朝比奈泰朝が、逆賊・平将門の名を借りて井伊家の主従を弔った可能性もあるような気がする。
その後、多くの今川家臣が今川氏真を見限って徳川家・武田家へと寝返る中、朝比奈泰朝は最後まで今川氏真に忠義を尽くしている。

またまた井伊家は存亡の危機を迎え、まだ幼い井伊虎松(井伊直政)にも累が及ぶところであったが、井伊直盛の妻(祐椿尼)の兄である新野親矩(新野左馬助)が、寿桂尼や今川氏真に嘆願して井伊家は救われた。
この事は、幕末の大老・井伊直弼へと繋がった井伊家において、お家存続のかなり重要なポイントにもなった。


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井伊直親の墓

静岡県浜松市北区細江町を流れる都田川の堤防脇に井伊直親の墓がある。

井伊直親の墓

掛川で殺害された井伊直親の遺骸は、家臣らの手によりこの地に運ばれ、都田川の河原で火葬し、墓が建てられたとある。法名は大藤寺院剣峯宗惠大居士。
1851年には大老・井伊直弼がお参りに訪れ、灯籠を寄進している。

井伊直親の墓

ただし、昔は200mほど東にあったようだが、河川工事により1977年12月に現在地に移転となったようだ。

都田川の井伊直親の墓がある場所は、下記の地図ポイント地点となる。
行き方としては、西側の橋から堤防上の道路を東へと進むと良い。
駐車場はないが、ちょうど、井伊直親の墓のある堤防上に2台ほどの車を路肩に止めるスペースがある。
そこから堤防を降りる階段もあるが、逆に平地側からは入れないので、堤防の上からしか訪問できないようである。
堤防の道路に歩行者などがいる場合、クルマは注意して走行願いたい。

<お断り>

写真を多く入れるよう改良させて頂きましたのに伴い、新野左馬助(新野親矩、新野左馬介)に関する内容は、下記に単独で新たに設けました。

新野左馬助とは~井伊家を救った今川家の目付である新野親矩の果たした役割

松下源太郎(松下清景)に関しては、下記の単独ページを設けましたので、ご了承願います。

松下源太郎とは~井伊直政の母が再嫁した松下清景と井伊家の関係

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