石川久式(いしかわ-ひさのり)は、幸山城主・石川久智の子として生まれました。
通称は石川源左衛門で、妻は三村家親の娘(三村元親の妹)となります。
備中の石川氏は清和源氏の流れで、吉備津彦神社の社務代も勤め、備中守護代にも登用されていました。
三村家の親戚として、三村家親の勢力拡大に尽力します。
しかし、1566年の春、美作に出陣した三村家親は、宇喜多直家の刺客が放った鉄砲にて殺害されます。
三村家の跡を継いだ三村元親は、実兄・庄元祐7000を前軍に、石川久智5000を中軍に、そしてみずからは8000にて宇喜多直家の明善寺城へ迫りました。
この明善寺の戦いにて、三村勢は総崩れとなり、キズを負った父・石川久智は帰還するも死去します。
こりにより、石川久式が家督を継いで備中・幸山城(甲山城・高山城)主となりました。
しかし、三村家も衰退を辿り、幸山城は、尼子再興軍の尼子勝久に攻められてて陥落しますが、のちに毛利勢の支援を得て奪回しています。
宇喜多直家と毛利家が事実上の同盟を結ぶと、1574年11月に、三村元親は織田信長に通じて、毛利氏から離反します。
このとき、石川久式も三村家と共にその道を選択したため、備中兵乱となり、毛利勢より攻撃を受けることになります。
石川久式(石川源左衛門久式)は、幸山城を捨てて、三百騎を率いて三村勢の副将格として妻子らと備中・松山城に入り、三村元親を補佐しました。
しかし、小早川隆景らの大軍に囲まれた備中松山城から三村元親は脱出を図り、石川久式も逃亡します。
三村元親は落ち延びる途中、足を怪我して動けなくなり、城下町にある松連寺にて、小早川隆景に切腹を申し出ました。
石川久式は妻(三村家親の娘)と子と、備中・松山城から出たのち、備前・天神山城の浦上宗景を頼ろうと、間道を抜けようとしましたが、途中で虎倉城主・伊賀久隆(伊賀左衛門)の家来に討たれたと言います。
別の話では、石川久式は四国に逃れようとして、家老・友野高盛(友野石見守高盛)の岡谷城(総社市岡谷)に入りました。
友野高盛は宿老で、留守居として幸山城に残っていましたが、毛利勢が近づくと早々に降伏していたようです。
そのためもあり、毛利勢に密告され、小早川隆景が岡谷城を取り囲んだため、1575年6月23日、石川久式は友野邸内の巨石の上にて切腹して果てたとも言います。
なお、石川久式は、まだ19歳だったともされます。
この巨石は現存しており、介錯した首と刀を洗ったという小さな池もあるそうですが、古民家(友野家)の敷地内となります。
また、三村元親の遺児・勝法師(8歳)も連れていたようで、近くの池畔にて処刑されたと言います。
その後、石川久式の亡霊が出たと言うことで、祠が建てられ、友野家一族を挙げて祀ったとも・・。
こちらの話のほうが、より現実的な感じもしますが、石川久式の墓は、現在、幸山城近くにある総社市三須の戒光寺に移っているそうです。
ちなみに、備中・高松城は、石川一族の石川久孝(石川左衛門佐久孝)で、その娘婿になったのが清水宗治ということになります。
・幸山城(高山城) 備中・石川氏の豊かな拠点
・備前・虎倉城 伊賀久隆 伊賀家久 長船越中(長船詮光)
・備前・天神山城 浦上宗景の本拠地
・備中松山城~雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿を見たい
・謎が多い庄元祐~穂井田元祐・荘元祐の運命
・浦上宗景 美作・備中に覇をとなえるも宇喜多家により
・三村家親 備中をほぼ統一するも短筒にて暗殺された大名
・三村元親とは~備中兵乱にて毛利家に屈する
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