唐沢玄蕃【跳び六法】真田家に2代で仕えた忍者

真田家の忍者とした仕えた唐沢玄蕃は、初代と2代目と同じ名であるため、両方の唐沢玄蕃を紹介したい。

初代・唐沢玄蕃

戦国時代の武将だが生年は不詳。
はじめは、信濃・沢渡の地侍で吾妻・岩櫃城主の斉藤憲次に仕えていた。
斉藤憲行の一族で、岩下城主の一族が沢渡を知行し唐沢杢之助(唐沢杢之介)(からさわ-もくのすけ)と名乗り、唐沢久幸とも称したと言う。
通称は唐沢玄蕃。 


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1563年、真田幸隆が吾妻攻略を開始し、岩櫃城を攻略のため、周辺の支城を次々と攻め落とす。
この時、大戸口を守備する斎藤勢の武将に唐沢玄蕃と、割田新兵衛の名が見られる。
内山城の城代・富澤加賀(唐沢玄蕃の一族)が、人質を出して真田幸隆に降伏した際、初代・唐沢玄蕃も真田家に屈した。
唐沢玄蕃は妻と一子・於猿(おさる)を連れて、軍監として参加していた武藤喜兵衛昌幸(真田昌幸)が在陣していた八尺原(上沢渡)を御礼の挨拶の為、訪ねている。

その後、岩櫃城に真田家が入ると、初代・唐沢玄蕃は真田家の家臣に加わったが、斉藤憲行の子・城虎丸が守る嵩山城の攻防戦の際、初代・唐沢玄蕃は、大手一の木戸口にて早川源蔵と対決し討死にした。
この時、武田信玄は唐沢玄蕃の子・於猿(2代目)に感状を出している。


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2代目・唐沢玄蕃

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父の跡を継いだ2代目・唐沢玄蕃(からさわげんば)は、初名を「於猿」とし、唐沢久基と称したと言われている。
助走なしで1.8mも飛び上がり、12mの高さから飛び降り音を立てずに着地したようで「忍び名人」「飛び六法」と忍者としての技能を称され、跳躍術・火薬術にも長じていたと言う。
飛び六法と言うのは、助走なしで6尺(1.8m)の高さを越える事ができる技などで、真田十勇士猿飛佐助のモデルになった可能性がある。

真田昌幸に仕えると、真田忍軍総帥・出浦盛清(出浦対馬守)の配下となり、同じ忍びである割田重勝の娘を妻に迎えた。

真田昌幸のもと、数々の戦に参戦し、信濃・尻高城では夜陰にまぎれ偵察を行った際、見事な「金の馬鎧」をつけた馬ごと盗み出した言う逸話がある。

尻高城を焼き落とせと命じられた唐沢玄蕃は仲間の忍者・割田新兵衛と謀り、まんまと城に潜入した。
得意の火薬を使って尻高城に火を放ち、敵を撹乱させると引きあげたと言う。
その後、唐沢玄審は、夜陰に粉れて中山城に忍び込むと、尻高城主・中山安芸守は鼓を打っていて、酒宴の真っ盛りであったと言う。
しかし、中山安芸守の鼓はまるで下手で、百回打っても1度しか音が出ず、将兵たちは口をそろえて「百一つ」と揶揄するほどであった。
夜も更け、城兵も夜番も酒で寝入った頃、唐沢玄蕃は城壁をかるがるとよじ登って潜入し、周囲を伺いながら、城兵の寝息に呼吸を合わせてスルリと納戸へ忍び込んだ。
そして、得意の火薬で放火しようとすると素晴らしい金の馬鎧(軍馬に装網する防具)が目に入ったと言う。
「これは見事。中山殿には不釣り合いだ」と放火はせずに馬鎧を持って帰ったと言う逸話で、この馬鎧は、平井城主だった関東管領上杉憲政から拝領した貴重な品であったのだ。

しかし、この逸話は割田重勝(割田下総守、割田新兵衛)にもあるので、もしかしたら2人で協力した得た戦功なのかも知れない。
なお、唐沢玄蕃の妻は割田重勝の娘とされている。
武田家の時代、沼田城攻めでは使番としても活躍が見受けられる。

1575年、武田勝頼徳川家康織田信長との「長篠の戦い」にも参陣。
1582年には、17貫文を知行しているのが見られ、1586年には57貫760文に加増されている。


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また、豊臣秀吉の小田原攻めの際、大道寺政繁の松井田城攻めに参加した真田家武将に唐沢玄蕃の名が確認できる。

関ヶ原の戦いのあとは、真田信之に仕えた。

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