刀剣の起源
日本における刀剣の起源は、大陸伝来の青銅(銅と錫の合金)製の銅剣である。
伝来した頃の銅剣は、細身の刀姿で取り回しの良さに特化した武器としての用途が明白だった。
しかし、青銅は、剛性に乏しく脆弱で武器としての用途に向かなかった。
さらに、銅剣の伝来とほぼ同時期に、大陸より鉄器文化と製鉄・鍛冶の技術が伝来した。
鉄器、特に鉄剣の武器としての優秀さ(殺傷力)は銅剣とは比較にならないほどの差があった。
以後、銅剣は、武器としてではなく、祭祀に用いる祭器として利用されていく。
ただ、古代では銅剣と鉄剣の用途の区別は、まだ明白でなかった。
石上神宮(奈良県天理市)の宝刀である七支刀は、特異な形や刀身に象嵌された金文字からして鉄剣でありながらも武器ではなく儀式に用いた祭器説が有力である。
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一般的な日本刀の形態は、刀身に反りがあり、片刃の鉄製の刀姿をいう。
一口に刀剣とはいうが、剣(つるぎ)とは諸刃(両刃)の刀姿を指す。
古代から平安時代初期の多数は、反りのない直刀(直線的刀姿)で、切るというより突くという使い方に特化していた。
この頃の直刀の代表的な剣といえば、今日、皇位継承の証、天皇の権力と権威の象徴とされる三種の神器の一つ、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)、または草薙剣(クサナギノツルギ)であろう。
これは、記紀の出雲神話において、素戔鳴尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇退治の際に大蛇の体内から出現した神剣であり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征に景行天皇より下賜された宝剣である。現在は、熱田神宮(愛知県名古屋市)のご神体として尊崇されている。
古墳時代後期以後の直刀には、金銀で豪華な装飾がなされており形も多様であり、後代の日本刀としての定型にはまだ至っていなかった。
金象嵌の装飾が施された鉄剣で著名なのは、稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の「金錯銘鉄剣」(国宝 埼玉県立さきたま史跡の博物館所蔵)である。
刀身の表裏に漢字115字が金象嵌され、第二十一代雄略天皇を表す「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」の文字が見て取れる。
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古墳時代中期から奈良平安時代に移るに従い、実戦で使用するに適した刀、すなわち突くだけではなく斬ることに長けた大刀が主流となった。
それでも魔を払い、国家鎮護といった祭祀で使用する祭器としての一面は残っていた。
また、遣隋使・遣唐使によりもたらされた優美な大陸王朝文化の影響により、豪華絢爛な装飾がなされた飾太刀が都の貴族の間で珍重された。
飛鳥奈良時代を代表する刀剣といえば、七星剣と水龍剣の二振りである。
七星剣(国宝 大阪府四天王寺所蔵 東京国立博物館寄託)の名称は、中国の道教で尊ばれている北斗七星が意匠されているのに由来する。
また、聖徳太子の佩用であったともいわれている。
水龍剣(重要文化財 東京国立博物館所蔵)は、奈良正倉院御物で拵えはなく刀身だけであった。
これを見た明治天皇は、その名を惜しみ、加納夏雄に拵えを下命して自らの佩用とした。
平安時代中期以降、我々が見知っているところの刀身に反りをもたせた片刃の鉄製の彎刀が現れてくる。
鉄の生産、鍛造技術の進歩、特に源氏平氏を中心とする職業軍人としての武士階級の成立台頭がその大きな背景になっている。
直刀から彎刀になったことで、単に突くという単純な攻撃から、叩き斬るという強い殺傷力と相手の攻撃を受け流してすぐさま攻撃に転じるという俊敏性の二つを合わせ持ち、武器としての完成度が向上した。
結果、武器としての刀と祭器としての刀の住み分けが明確になった。
武器としての刀は剛健でありながらも扱い易い大きさになり、祭器としての刀は煌びやかで大きさもより大きくなっていった。
平安時代後期になると、武器としての刀は、鎬造り、庵棟、狭い身幅で小切っ先の様式が多くなる。
平安時代を代表する太刀としては、源頼政の鵺退治伝説で有名な黒漆塗糸巻拵えの「獅子王(重要文化財 東京国立博物館所蔵)」、源頼光が大江山の酒吞童子征伐で佩用した「童子切安綱(国宝 東京国立博物館所蔵)」、山城国の名刀工三条宗近が鍛えた「子狐丸(散逸)」等がある。
鎌倉時代に入ると戦乱が激しくなり、日本刀の需要は増大の一途をたどった。
ともなって、多くの刀工が生まれ、作刀本数も増加していった。
また、大刀だけではなく、短刀や小太刀の大刀を補完する日本刀が誕生した。
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鎌倉時代の戦術は、騎馬と足軽(歩兵)による集団戦へと変化した。
敵への殺傷力を高めるため、豪刀が好まれるようになった。
それまでは二尺余りの刀長が主流だったが、三尺以上の大太刀が主流になった。
反りも、平安時代後期は鎺金の部分から反る形だったが、この頃になると鎺元の上部が反りの中心になる形に変わっていった。
鎌倉期を代表する刀工としては、「石田切込正宗」などを作刀した相模国鎌倉の住人、「岡崎五郎入道正宗」が挙げられる。
「岡崎五郎入道正宗」は古今の刀工の中で特に傑出した名工と賞されている。「五箇伝」の一つ「相州伝」の創始者といわれ、多くの逸材(いわゆる正宗十哲)を育て、後世に与えた影響は多大である。
南北朝時代から室町時代は、南朝と北朝、室町幕府と鎌倉公方、三管領四職等、中央も地方も多数の対立軸があり、常に準戦時状態の戦乱が頻発する時代であった。ゆえに日本刀も大太刀や野太刀といった大振りで長刀、殺傷能力の高い豪刀が必須となり。
上級武士だけではなく下級武士にも豪刀の需用が広がっていった。
大振りでも抜き易くするため形状を先細りにする工夫が見られ、のちに普及する打刀の形状に近づいていく。
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戦国時代の戦闘形態は、歩兵(足軽)中心の密集型戦闘方法が確立され、戦闘集団の機動力が重視された。大太刀のような大振りで重量のある日本刀では速度に順応できなくなり、打刀のような小づくりで軽量な日本刀の需要が高まっていった。
打刀は鞘を腰溜にしたまま抜けるように、刃を上にして脇に差す。
刀身が先反りなのも素早く抜くための工夫である。
長らく続いた戦国の世も終わり、天下泰平の江戸時代になると殺傷を目的として日本刀を抜く機会が激減した。
日本刀は武器としての価値ではなく、武士階級の象徴であり、徳川将軍家や各地大名、武士階級間の贈答進物品として政略的な使われ方をした。
また、心身の鍛錬として武道の稽古に使いやすい反りが少なく、姿が美しい日本刀が好まれるになった。
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江戸時代末期になると、またもや殺伐とした時代に突入して戦国期以前の刀の模倣が流行した。
幕末には、大太刀と同じ長さで反りを無くした直刀の勤王刀なる刀が生まれたりした。
そして、ついに明治九年三月二八日(1876年)に発令された「廃刀令」により古代から連綿と受け継がれた武器としての日本刀の歴史に終止符がうたれた。
(寄稿)大松
・天下五剣の解説~童子切安綱・三日月宗近・鬼丸国綱・数珠丸恒次・大典太光世
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