北楯利長とは
筆者の郷里である山形県の庄内平野は、ササニシキ、はえぬき、近年ではつや姫や雪若丸と言った米の産地として全国的にも有名ですが、その生産力は戦国時代に活躍した一人の武士が発端であったと言います。その武士こそ、本項で紹介する北楯利長(きただて-としなが)です。
利長(またの名を大学)が天文17年(1548年)に生まれたこと、最初の姓を“北館”と名乗っていたことは判明していますが、それらを除くと若き日の記録に乏しく、歴史の表舞台に彼が登場するのは慶長6年(1601年)に最上義光が上杉景勝を打ち破った時、庄内地方三郡(田川・櫛引・遊佐)を奪還した時になります。主君より田川郡狩川の城主の地位と3000石を賜ったこの時点で利長は50歳を過ぎていましたが、彼の驚くべきところは、その精力的なバイタリティーです。
元から寒冷地であるだけでなく、度重なる戦乱と一揆に悩まされていた庄内地方は水源地が農地よりも低い所にあるため、夏に日照りが起これば稲が枯れるなどの問題もありました。民衆の困窮と領地の貧しさを目の当たりにした利長は、荒野を水田に変えるべく動きました。
水田を作るために領地を見て回り、特に水源地の情報を集める領主の姿は臣下、領民にとって奇異なものであったのは間違いなく、とうとう“水馬鹿”という不名誉なあだ名すら付けられてしまう程でした。10年にもわたる調査の結果、利長が目を付けたのは月山の北側にある立谷沢川で、彼は義光に堰を掘削する事業を言上します。慶長16年(1611年)の夏でした。
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狩川城の装備を整えておくなど、余念なく務める利長をかねてから評価していた義光は一族や家臣の中の賛成派と反対派を評定させ、利長の意見も聞いたうえで大工頭の測量
も行い、翌年の春から着工させることを認めます。庄内平野に水を引き入れるために30キロを超える堰を掘削する大事業には最上領内から6287人(一節には狩川からの人員も含めて7000人超)をも動員したと言われています。
当時、こうした公共事業は徴発、義務である事が少なくなかったですが、利長は労働者に食事ばかりか給金、菓子や酒など嗜好品も与えて手厚い福利厚生を整えて人々を気遣いました。また、自らが埋蔵した金銀を掘り当てさせ、これは天のお恵みであると述べて労働者の士気も高めたという伝説も残されています。
ここまでして人々を労わりながら大事業を為した利長でしたが、途中で16人の死者が出る悲劇にも見舞われ、彼の子孫はその冥福を祈って16代目まで祝い事を慎んだと伝えられています。工事が滞った時には大切にしていた金銀螺鈿の鞍を川に投じて祈り、流れが収まった時に工事を完成させ、この故事は“青鞍の淵”として語り継がれました。
こうして完成した堰によって開拓が進むのを喜んだ義光は利長に300石を加増したうえで、
“庄内末世の重宝を致し置き候”
と賞賛の言葉を送り、堰による新田が何万石になろうとも利長の知行にすると証書を与えます。その結果、4200町歩が開拓されて石高は3000石から30,000石にまで倍増し、庄内平野は不毛の大地から米どころへと変貌を遂げたのです。この堰の名は、利長に由来して北楯大堰と呼ばれました。
元和8年(1622年)に最上氏が改易の憂き目を見た際、当然北館家も所領を失いますが、新たに入封された酒井忠勝に息子の助次郎(正久)が300石で召し抱えられ、隠居していた利長も100石を賜ります。この頃、北館は北楯に改姓しました。
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3年後の寛永2年(1625年)10月20日、戦国の乱世から平和な江戸時代になるまでを生き抜いて庄内の繁栄に尽くした北楯利長は78年の生涯を終えました。彼の善政と偉業は安永7年(1778年)に利長を北楯水神として祀る水神社が建立され、大正4年には従五位が追贈され、翌年には水神社が狩川城址の楯山公園に移され、北舘神社として今に至ります。同公園内には利長の像が建立され、今もなお自らが一生をかけて開拓した庄内平野を見守り続けています。
(寄稿)太田
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