戦国時代後期までは間道であった小仏峠ですが、武田信玄の家臣・小山田信茂が、それまで軍勢の通行が困難と思われていた小仏峠を越えて、1569年に滝山城への攻撃に参加したため、八王子城主・北条氏照が、小仏峠に「関所」を設置したと言います。
その昔は「小佛峠」と書きました。
峠の名前の由来は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていからです。
標高は548mです。
富士見関所とも呼ばれています。
実際に小仏峠からちょっと上がった所からは、富士山がとてもキレイに見えます。
ちなみに小仏峠が開かれる前に、武蔵から甲斐へと超える主要道は、現在の底沢峠(昔の名は明王峠)だったとされます。
1580年になると、小仏峠から、東側の麓である駒木野に北条氏照の関所が移されたと言います。
こうして、小仏峠は新しい甲州街道の峠道として整備され、現在では神奈川県と東京都の県境となり、峠のしたにはトンネルが掘られて、中央高速とJR中央本線も通過する、一大重要地点となっています。
小仏関所は駒木野関所とも呼ばれ、江戸時代に入ると、徳川幕府の五街道整備などで街道も更に拡張され、1616年には、現在の「小仏関所跡」に関所が移転されました。
特に富士参詣の行者は小仏峠を越えて行ったので、富士関とも呼ばれたようです。
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関守は八王子千人同心や関東18代官の手代などが、交代で務めたと言います。
関所を通る旅人は、少し高い丸石の上に関所手形を乗せて、手前の平石に手をついて頭をさげたと言います。
通常、通行できるのは朝6時~夕方18時までで、京都または江戸から朱印を携えた人馬や、大阪定番または江戸南町奉行所の証文をもった通行人だけは、夜間でも通行が許可されました。
1869年(明治2年)の太政官布告により、他の関所とともに廃止となります。
小仏峠は、幕末になると近藤勇・土方歳三・佐藤彦五郎ら甲陽鎮撫隊も往復通過しましたし、新政府軍の板垣退助も超えました。
また、明治時代には明治天皇も行幸の際に、小仏峠を越えています。三条実美も一緒にです。
その後、1888年(明治21年)に当時の国道16号(現在は国道20号)が、大垂水峠に開通したため、小仏峠は交通の要所ではなくなり、現在はハイキングとて訪れるようなところになっています。
・小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
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