ガスパール・コエリョは、1530年生まれのポルトガル・オポルト出身。
1556年、コエリョはインドのゴアでイエズス会に入会した。
インドでは司祭に叙階され、1572年に日本に到着し、肥前大村(長崎県)領中心に活動するとのち、下地方(主に肥前地方)で布教活動をした。
日本地区がインド管区を離脱してイエズス会の準管区に昇格すると、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって1581年にコエリョが初代準管区長に任命された。
1585年には宣教を優位に行い更にキリシタン大名を支援する為、フィリピンに艦隊派遣を要求している。
イエズス会では日本全土をキリスト教に改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていたと言う。中国明朝のキリスト教化がイエズス会の最大の悲願であった。
1586年、地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見し、日本での正式な布教許可を得た。
この時、豊臣秀吉の案内で天守閣に昇り、のち豊後の大友宗麟が大坂城を訪れた折に組み立て式の「黄金の茶室」を見る機会を得ている。
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1587年、豊臣秀吉の九州攻めの際には、八代の陣に出向き陣中見舞いを行っている。
コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船(英語版)を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる豊臣秀吉に見せるという行為を行った。
高山右近や小西行長はこの行為を懸念し、コエリョにその船を豊臣秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。
九州征伐を終えた豊臣秀吉は、ポルトガル商人が奴隷として、日本人を人身売買で海外に売っていた事(奴隷)を知ると「バテレン追放令」を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責した。
このように豊臣秀吉は、日本人の人権を守る為、キリスト教を禁止し、20日以内の国外退去を命じたのだ。
ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョが軍事力を見せつけたなどの挑発的な行為が主な原因だとしている。
バテレン追放令を受けてコエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して豊臣秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが、有馬晴信は小西行長と同様にコエリョを嫌っていたので実現しなかった。
その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否されると、次に1589年にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに働きかけて、大規模な軍事援助を求めるよう要請した。
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その間、全国のイエズス会員たちを長崎の平戸に集結させ、潜伏して公然の宣教活動を控えることにしたが、1590年、コエリョは肥前国加津佐で死去した。
ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている。
徳川家康は、宣教師が諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦乱となったと言う認識を持っており、江戸幕府でも「鎖国」してキリシタンを禁じたのだ。
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