蔵田五郎左衛門の解説 上杉謙信を経済面と外交面で支えた越後商人

蔵田五郎左衛門





 越後国(新潟県)を本拠地とする上杉謙信(旧名:長尾景虎 1530~1578)は誰もが知る戦国期を代表する群雄の1人でありますが、戦国期~現代という永い時を経ても謙信が名将として誉れ高い所以は、やはり合戦面で殆ど負けを知らないという「戦国期随一の戦上手/戦術家」であることに帰するでしょう。謙信は、戦神「毘沙門天の化身」と自称したいう逸話も有名でありますが、謙信は生涯の内、大小71回という多くの合戦に参戦したと言われ、その戦績は「61勝2敗8分、実に勝率97%!」(出典:DIMOND ONLINE)という、凄まじい勝ちぶりを観ると謙信が己自身を「軍神」と周囲の人々に吹聴したのも決して大仰な事では無かったことが判ります。(ただ家臣団統制や領国経営など長期的戦略が不得手であり、謙信の天才的軍事力も自勢力の拡張には効力をあまり発揮しませんでしたが)



 上杉謙信が生涯の内71回にも及ぶ合戦に従事し、61勝も挙げることが可能であったのは謙信自身が天才的な戦上手という個人能力もあり、また彼が率いた越後将兵が無類の屈強な武士団であったことも大きな理由であります。思い浮かべるだけでも、長尾政景(越前守)・柿崎景家(和泉守)・直江実綱(後に景綱、大和守)・斎藤朝信(下野守)・色部勝長(修理亮)・中条藤資(弾正左衛門)といった上越・中越・下越の勇猛果敢な越後国人衆が強豪・上杉軍の中核を成して謙信を援けていたのであります。
 特に色部・中条などの国人衆は、越後阿賀野川(揚河)北岸地帯を本貫地としている強豪集団「阿賀北衆(揚北衆)」の一員であり、有名な第四次川中島合戦(八幡原合戦 1561年)における色部勝長たちの勇猛果敢な戦いぶりは有名であります。因みに最近(2020年10月下旬頃)に、北陸新幹線車内で配布されていたフリー雑誌内で、上記の「阿賀北衆」の特集が組まれていたことに少し驚きつつも楽しく読んだことを覚えています。それほど阿賀北衆が知られるようになってきたのですね。
 上杉軍の人材(兵力)面では上記の如く猛者揃いですが、軍事行動を起こすに当たって、もう1つの必要不可欠なものとして、やはり財力、『経済力』があります。
 『政治経済の延長線上に戦争がある』と言われるように、経済力無しで政治(領国経営)は動きませんし、兵員・兵糧・武器も調達することも能わず、軍備が揃わなければ戦争は勿論できません。先述のように謙信が71回、しかもその殆どが越後国外への遠征を敢行することが可能であったのは、その幾度とない遠征に耐えうるだけの経済力の高さがあったからであります。上杉氏の経済力を支えていたのが、『日本海交易(直江津と柏崎の良港支配)』と、繊維原料の『青苧(カラムシ)』でありました。因みにこの青苧を原料として織り成されるのが有名な「越後上布」であります。
 木綿など繊維原料がまだ珍重されていた戦国期当時にあって青苧は、衣類(特に男性用夏服原料)の貴重な繊維物質であり、上杉謙信の本拠地である越後は、当時日本国内最大の青苧生産地でありました。現在では越後、新潟県は日本屈指の米所として有名でありますが、謙信在世の越後は巨大な繊維産業地帯で潤った地帯であり、その産業によって経済力を蓄えた謙信は有力な戦国大名として北国に君臨したのであります。青苧で経済力を培った上杉謙信を経済面で支えていたキーパーソンこそ越後の豪商『蔵田五郎左衛門』という人物であります。

 蔵田五郎左衛門職業:商人。戦国期の越後というローカルで主に活動していたこともあってか、殆ど知られていない日本史上の人物の1人であります。白状致しますと、映画「天と地と」(原作:海音寺潮五郎先生、監督:角川春樹氏 1990年公開)を観て以降、上杉贔屓を自負する筆者も、ついこの間までは全く蔵田の名前を知りませんでした。
 近現代では、商業(ビジネス)で成功した偉人(豪商)は和洋問わず、我々の記憶に残るほどの有名であります。米国の石油王・ジョン・ロックフェラー氏、松下電器産業(パナソニック)を創業した松下幸之助氏、等々誰もが知る偉人(昔で言う豪商)が、その好例的存在と言えるでしょう。それに比べ日本戦国期における豪商たちは、堺の今井宗久、博多の神谷宗湛などを除き、戦国期に活躍した商人たちの名前が、現代の我々に周知される事例はとても希少であると思います。
 今記事の中心人物である蔵田五郎左衛門もその例外ではありません。しかし、無名の商人ながらも蔵田五郎左衛門は、戦国期当時に、天下にその武名を馳せていた越後上杉氏(長尾氏)の財政や外交を担った影の実力者でありました。
 因みに、他の有力戦国大名にも必ずと言って良い程、その勢力のバックアップする「パトロン(旦那衆)、政商」が存在するものであります。即ち、織田信長には大河ドラマ「麒麟が来る」で重要登場人物で、名優・陣内孝則さんが演じておられる「今井宗久」、豊臣秀吉には茶人としても有名な「千利休」やキリシタン商人「小西隆佐・小西行長父子」、徳川家康には「茶屋四郎次郎」、謙信の宿敵の1人である北条氏康には銘菓・外郎(ウイロウ)で有名な「小田原外郎家」、といった各区域を拠点とする豪商などが存在しました。
 特に、織田信長政権下における豪商・今井宗久の財政および軍需面および活躍、織田管轄下の鉱山運営・鉄砲製造・玉薬調達など
多岐に渡って、重商主義の信長を補佐し、また次代の豊臣秀吉政権でも豪商(薬種問屋)を出自とする小西隆佐も、各地の豊臣蔵入地の代官を歴任して財政管理で補佐。隆佐の息子・小西行長は領国経営や外交で大きく活躍し、豊臣政権下の大名(肥後宇土20万石)まで累進したことは有名であります。
 越後上杉氏(長尾氏)における蔵田五郎左衛門の活動は、上記の天下人に仕えた今井宗久や小西行長などの活躍ぶりに比べると、規模はどうしても見劣りしてしまいますが、先述のように蔵田も、戦国期当時、貴重な繊維産業であった『青苧事業』をメインとして、上杉氏の経済流通・財政管理、中央政権(朝廷・幕府)との外交折衝で重要場面で動いているのであります。
 繰り返しますが、蔵田五郎左衛門という商人は世間一般には周知されていませんが、何と国家機関である国税庁の公式サイト内に蔵田についての紹介されていたり(「中世の青苧と座」)、更に歴史研究に勤しむ諸先生方にとって蔵田は、戦国大名の領国経営および経済政策などを研究するには恰好な人物の1人であったのです。その最たる例が、日本中世史(特に経済史、荘園制研究)の権威でいらっしゃった一橋大学名誉教授・永原慶二先生(故人)であり、蔵田についての研究に着手されており、その論文として『上杉領国経済と蔵田五郎左衛門』を上梓されておられ、この論文は永原先生著作集の1冊である『戦国期の政治経済構造』(岩波書店、1997年)に収蔵されており、簡単に購読することが出来ます。因みに今回執筆させてもらっている記事でも、この永原先生の著作を大いに参考させて頂いている次第でございます。
 永原先生の蔵田五郎左衛門についてのご研究内容を大まかに紹介させて頂くと以下の通りであります。

⓵蔵田五郎左衛の蔵田氏の出自は、越後出身の国人(或いは商工業者)ではなく、戦国期当時から日本商業流通の中心地の1つであった伊勢国(三重県)の伊勢神宮に仕える『御師(下級神官の一種)』であったこと。

⓶蔵田が戦国大名として台頭した越後守護代・長尾為景(上杉謙信の実父)に御用商人として仕えるようになった経緯は不明ながらも、蔵田は全国を信仰巡業(上納米徴収)する役目を担い、日本各地に人脈と情報網を持つ御師という出自を大いに活かして、当時越後(長尾氏)の主要財源であった繊維『青苧=カラムシ』の商業組合・「越後青苧座の頭目(商人司)」となり、長尾氏(上杉氏)の経済力向上に大きく貢献したこと。

⓷越後の青苧座を取り仕切る立場=越後上杉氏の渉外係として、名目上全国の青苧座を統括、苧に関する流通課税の徴収権を有する名門公家・三条西家に対して、蔵田が越後青苧に対する課税の減額談合などを行っていること。

⓸「蔵田五郎左衛門」という人物は、少なくとも3人存在し、代々蔵田氏の当主となった人物が五郎左衛門を襲名。長尾為景・長尾景虎(上杉謙信)・上杉景勝の3代の越後戦国大名・上杉氏に出仕。代々の上杉氏当主からの信任は厚く、謙信時代の蔵田五郎左衛門は青苧座を取り仕切るのみではなく、謙信の本拠地・春日山城の留守居役」、城内の金庫番である「御蔵役人」「普請奉行」、そして上杉氏の城下町と言うべき「越後府内(直江津)の代官」をも兼任する八面六臂の活躍をしていること。

 以上の⓵~⓷の越後上杉氏における蔵田五郎左衛門の多方面に渡る活躍ぶりを永原慶二先生は、『蔵田五郎左衛門は、いわば上杉領国の政治・経済のキーマン的存在』と前掲の『戦国期の政治経済構造』内でも書かれておられます。以下、⓵~⓸について順繰りに紹介させて頂きます。

 ⓵の蔵田五郎左衛門が出自とする「御師(正式名称:御祈祷師)」についてですが、御師という神職は『特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者』(Wikipedia文中から抜粋)が古来よりの職務でありますが、室町後期および戦国期になると、御師は各地に点在する伊勢神宮の神領の代官職も兼ねている一方、戦乱により寺社所有の荘園や領地が大名や地侍に横領され経済的に逼迫すると、御師は各地の旦那衆(信仰有力者)を巡り、加持祈禱・お札配りを行って旦那衆から上納米を受け取り、寺社にそれを納めるという、一種の寺社お抱えの訪問販売員のような役割をも担うようになっていました。
 上記のように日本各地を廻る御師たちは、現地の御師や神官および地元有力者である旦那衆などと多くの人々と交流を持ち、その地の支配者の情勢や経済力、特産品などの地理風俗に通暁していました。即ち広範囲に及ぶ『人脈』『情報源』を、当時の御師たちは有していたのであり、このことを永原慶二先生は『御師一族のネットワーク』と称した上、御師という職種は『商業活動上の人脈や政治的情報入手にはきわめて都合が良かった』と書かれておられます。
 先述のように、日本国神社の大元とされる伊勢神宮に属していた御師・蔵田氏を出自とする越後上杉氏(長尾氏)の御用商人である蔵田五郎左衛門は、越後特産の青苧販売など商業活動を行う上で、極めて有利な人脈や高い情報収集能力、総称して『御師一族のネットワーク』を有しており、青苧の売買を主要財源として、政治・軍事全般(戦国大名支配)を支えている長尾為景や上杉謙信などにとっては蔵田は、正しく「欠かせない逸材」であったのです。

⓶⓷の「青苧座と(初代)蔵田五郎左衛門」について
 青苧座は、越後以外にもあり、畿内には天王寺苧座・京都苧座・近江坂本苧座などもありました。現代で言うところの「首都圏繊維組合」といったところでしょうか。その天王寺などの苧座を管理(『職掌の家職化』)のトップとして存在し、各地の苧座から多額な公用役銭を徴収していたのが、公家・『三条西家』でありました。
 三条西家は京都の主要出入口および交通の要衝である美濃国(岐阜県南部)などに関所を設け、それらを通る青苧商人から苧公事(青苧関税)を徴収し、莫大な収入を得ていました。そして公事を納めている青苧商人に青苧の売買の許可を与えて、各地の青苧を買い占めさせ、また彼らから関所で苧公事を徴収するというビジネスモデルを三条西家は把握していました。
 その青苧商人の中で、前掲の天王寺苧座は特に強大なグループであり、三条西家とも密接な関係であったと言われ、畿内~北陸、即ち青苧一大原産地である越後の販売流通ルートを独占する一方、越後の青苧も独占的に買収。天王寺苧座は、毎回京都に搬入する青苧に掛かる苧公事の納入義務を三条西家に免除してもらう代わりに、上記の独占的青苧売買で得た利益の中から年間150貫という苧課役を同家に納めていたと言われています。
 余談ですが、先述の青苧流通ルートの詳細についてですが、京都・天王寺といった畿内は青苧の一大消費地であり、越後から輸出されてくる青苧は、直江津あるいは柏崎の港から日本海航路で運び出され、越前国・若狭国(共に福井県)の敦賀および小浜の港で陸揚げされ、次いで近江国(滋賀県)の琵琶湖の水運ルートによって、湖西の近江坂本まで運び込まれて、陸路から京都に入るという、主な青苧(北陸の米や魚介類など物資も含む)輸送ルートであったのですが、「近江坂本」が青苧輸送の中継点であったことが注目されます。
 「近江坂本」、と言えば、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が織田信長より所領として与えられた所縁の土地であり、また光秀・信長の強敵として織田軍の前に立ちはだかった比叡山延暦寺の本拠地でもあります。比叡山が強大な経済力を以って戦国大名並み以上の勢力を保持し、平安末期~信長に焼き討ちされるまでの永い時代に渡って朝廷・幕府、大名といった各政権に容喙することが出来た一因として、琵琶湖を伝って近江坂本に運び込まれて来る貴重な繊維原料・青苧を含め北陸の豊かな物資の中継地(交通の要衝)を比叡山の山頂より抑えてことが挙げられます。
 織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした直後に、当時織田家中で最も有能な武将であった明智光秀に近江坂本の統治を任せ、同地に新城(坂本城)を築かせ、琵琶湖交通の抑えとしたという一点を考えてみても、当時の近江坂本の重要性が分かるのでありますが、青苧を管理する苧座も置かれていたという観点からも、同地が経済流通の重要拠点であったことが良く分かるのであります。
 以上、今年の大河ドラマで所縁が深い近江坂本についての余談が長くなってしまいが、青苧についての本題に戻りたいと思います。

 三条西家と天王寺苧座の青苧産業独占は、上杉謙信が誕生(1530年)する遥か以前の室町中期頃から行われていたのですが、謙信の実父にして越後守護代であった長尾為景が越後守護大名・上杉氏を下剋上によって傀儡化にして、越後の事実上の支配者になった1490年後半以降、為景は強固な経済力確保のために青苧販売権に介入し、それまで青苧を独占的に買い占めを行っていた先述の天王寺青苧座を越後青苧マーケットから締め出しました。
 長尾為景によって越後青苧買い占めから追放されてしまった天王寺青苧座、そしてその座から毎年莫大な苧課役(150貫)を取り立てていた三条西家にとっては痛恨事以外の何物でもないのですが、兎に角も長尾氏側と三条西家間で、今後の青苧売買および課役についての方針交渉が行われ、最終的に長尾氏が支配下に置く越後青苧座が青苧販売権を把握することになり、その代わりに三条西家には年間50貫の苧課役を納入するという、長尾氏側有利の結果に落着しました。
 長尾為景は越後青苧座を使うことによって、莫大な利益を産む青苧販売権を把握したばかりでなく、為景が毎年三条西家に納める苧課役の額を、先例の天王寺苧座が三条西家に毎年納めていた課役150貫の1/3である50貫まで減額させたのであります。半額以上までにするとは凄まじい減額率であります。
 長尾為景の権威の下で、越後産青苧の生産販売および流通の掌握、そして三条西家に対して納入する苧課役の減額交渉と、その成功の実現に動いていたのが、蔵田五郎左衛門であります。蔵田は為景の意向を受け、越後長尾氏の京都出先機関の責任者、歴史学者・小和田哲男先生の譬えを拝借させて頂くと『越後上杉株式会社 京都出張所所長』というべき神余親綱(京都雑掌、この人物も長尾・上杉氏の経済外交キーパーソンであります)』と共に、三条西家と交渉に当たり、蔵田が主導する越後青苧座が、越後青苧の買い占め、京都への搬入権利独占を三条西家に認めさせ、先述のように、毎年納める苧課役も従来の150貫から50貫へ減額させることも容認させているのであります。
 永原慶二先生に拠ると、この交渉が纏まったのが大永年間、西暦で言えば1525年~1527年頃であり、上杉謙信(長尾景虎、1530年)が誕生する数年前には、越後長尾氏は重要財源となる青苧流通の権益を既に握ることに成功していたのであります。また余談となってしまいますが、上記の越後長尾氏、後の上杉氏の経済基盤確保の経緯と後の謙信の活躍ぶりを見て思い出すことは、織田信長、彼の実家である織田弾正忠氏の経済基盤を確保したことと酷似していることであります。
 即ち、上杉謙信は父・為景の代で、直江津・柏崎の良港、青苧の販売流通権益といった強固な経済基盤を確保しましたが、織田信長の場合は、祖父・織田信定と父・織田信秀の2代によって尾張国内の津島・熱田という良港、陶業が栄えていた知多半島を手に入れ大きな財源を確保したことにより、後の信長大飛躍の礎となりました。
 上杉謙信と織田信長、共に独善型のリーダー(良く言えば強烈なカリスマ性を持つ大将)、当時を代表する戦国大名としての共通点が有名でありますが、「父祖の代で強固な経済基盤が整っていた」という共通点も見逃せないものであります。
 
 蔵田五郎左衛門が、日本国内の青苧流通を掌握している三条西家に、上記の越後青苧座の台頭および同家に納めさせる課役の減額を認めさせる交渉を纏めるのが可能であった理由は、越後長尾氏の戦国大名としての勢力伸長が著しい権威的背景も勿論あったと思うのですが、伊勢神宮の御師を出自とする蔵田五郎左衛門は、広い人脈や情報収集源を持ち、畿内・東海に割拠する蔵田一族および各地の神宮旦那衆(ブルジョワジー)といった『御師ネットワーク』を駆使して、三条西家との交渉を成功させたことが、大きな要因であったのです。
 蔵田五郎左衛門が越後長尾氏=長尾為景の窓口となり、三条西家にから青苧の販売流通の権益の認可を得らえたことにより、長尾氏のちの上杉氏は莫大な軍事費を賄える貴重な財源を確保できたことは事実であり、長尾景虎、即ち上杉謙信の代になると上杉氏の青苧販売権益は更に強化され、越後産青苧を買い求め直江津などに入港してくる(特に畿内)の青苧商船に、『船道前=入港税』『青苧の関税』を適用させ、上杉氏は莫大な収入を得ていたのであります。上杉謙信の名だたる合戦である川中島合戦や関東遠征などの膨大な軍費は、青苧の関税収入から抽出されていたことは確実であります。この青苧関税や入港税などの徴収管理の担当官であったのが、越後青苧座の頭目であった蔵田五郎左衛門です。
 上杉氏の経済力を抽出および管理する蔵田五郎左衛門に対する上杉謙信、次代・上杉景勝の信頼は絶大なものであり、蔵田は単なる上杉氏御用商人および青苧座頭目の地位に留まらず、正式な上杉氏家臣(重鎮)として遇され、春日山城の留守居役、普請奉行、越後府内の奉行職、そして実城(春日山)の御蔵役人という金庫番まで任命されるまで上杉氏では重要不可欠の存在となっています。敢えて現代風で言えば、蔵田は、上杉内閣政権下における東京都知事・国土交通省内の不動産・建設経済局局長(旧:建設省)、そして財務大臣といった重職を兼任していたことになりますか。国家運営ではどれも欠かせない重要な職務であります。

「上杉氏の政治・外交・経済のキーパーソン (2代目および3代目)蔵田五郎左衛門について」
 蔵田五郎左衛門の尽力によって、それまで京都・公家の三条西家や畿内の天王寺苧座が独占していた青苧の販売流通権利を把握することになった上杉謙信を頂点とする越後上杉氏は、豊富な財源を確保することに成功。その青苧販売関連(港関税や青苧関税も含む)から産出される利益によって、謙信は、度重なる強敵・武田信玄(川中島合戦)や北条氏康(関東遠征)との戦いを敢行できたのであります。また軍事行動のみではなく、謙信の2度に渡る上洛や幕府・朝廷との京都外交での費用にも捻出されていたと言われています。この謙信の対京都外交でも、蔵田五郎左衛門は、前掲の京都雑掌役の「神余親綱(越後上杉株式会社 京都出張所所長)」と共に、足利将軍家・公家、そして上洛途上の有力者(大名および寺社勢力)ら多くの諸勢力と交渉(主に献金)を行い、謙信上洛が滞りなく果たせるように下準備に尽力しています。
 陰ながらも戦国大名・上杉氏の京都外交にも尽力している蔵田五郎左衛門は、既に単なる青苧商人および戦国大名の御用商人という立場を超越しており、上杉謙信が上杉領国を運営する当たって、蔵田は正しく必要不可欠な貴重な人材であったのです。
 事実、蔵田五郎左衛門は、上杉外交面のみではなく内政面でも尽力していることが、前掲の永原慶二先生のご研究によって明らかになっております。
 その一例として挙げられるのが、1561年2月、上杉謙信(当時、長尾景虎)が関東遠征および、武家の古都・鎌倉で執り行われる関東管領就任式参上のため出征先の上野国(群馬県)から蔵田五郎左衛門と共に、春日山城の留守居役であった重鎮・直江実綱と河田長親連署の蔵田五郎左衛門(蔵五)宛て書状を発しております。
 その内容を簡潔に紹介させて頂くと、謙信の晴れ舞台となる「関東管領就任式」に用いるための太刀(名刀)の2振りを黒拵えにして送ること、また上方で誂えた文台(小さな机)も至急送ることも命じています。そしてここからが重要なのですが、書状の結びで蔵田に『府内(直江津)の用心、倉の用心(府内の御用心、くら共の御用心)』を促しているのであります。
 また1564年、再び関東遠征に出陣している謙信から蔵田宛ての書状があり、その内容は甲斐の武田信玄が北信から越後に侵攻してくる気配ありという報告を謙信が受けた際に、『下の蔵に貯蔵してある代物全て(恐らく金銀・兵糧など)を実城(春日山城本丸)に移しておくように、云々』というものであり、蔵田が上杉氏の金銀・兵糧などの物資を管理していた金庫番であったことを証拠付けています。
 
 上杉謙信が蔵田五郎左衛門を上杉氏の生命線というべき蔵の管理人に任命していたのは、蔵田が本来、計数や商品流通に通暁している商人であり、「蛇の道はヘビ」という譬えがあるが如く、優れた計算能力と物資保管に関する知識が必要な上杉氏の御蔵役人を兼任していたという理由も勿論あるとあると思いますが、やはり一番の理由は、上記の永原慶二先生のご研究内容にあるが如く、蔵田五郎左衛門が春日山城の留守居役および城内の倉番役という戦国大名・上杉氏本部の政治経済のコア(中核)を把握する役目を任せられているほど、謙信から深い信頼を寄せられていたことではないでしょうか。
 単純に言い切ってしまえば、職柄が地方に拠る1人の商人でありながら、蔵田五郎左衛門が尽力していた上杉氏における政治・経済・外交など多岐に渡って活躍し、陰ながら同氏勢力維持、特に経済方面にて(今更ながらですが『兵站面=ロジスティクス』と言い換えてもいいかもしれませんが)尽力したことことは、紀元前の中国大陸で、秦王朝滅亡後の項羽(楚)と劉邦(漢)が覇権を巡って争った楚漢動乱期で、漢の宰相として漢軍の内政充実・経済発展・兵員や兵糧などの補給する兵站部門で大活躍した「蕭何」に共通しているのでは?と筆者は大袈裟さがらも思っております。
 「青苧座の頭目として、青苧の販売流通を管理して、そこから産まれた大きな収益を上杉謙信に供出する」、「公家や将軍家と交渉する」、「謙信の外征中に、奉行として城下町の管理、城内の御蔵の金庫番をする」、戦場で活躍する将兵に比べ、これら全て地味な責務がらも、最も重要な仕事であります。それが後方支援、兵站というものであり、別の言い方をすれば明治期に活躍した海軍軍人・秋山真之の謂う所の『戦務(軍事行動を起こすに当たって必要な下準備)』であり、更に戦略インテリジェンス世界でも『戦の素人は戦術を語り、玄人は兵站を語る』という慣用句があるが如く、上杉氏の蕭何のような貴重な人材であった蔵田五郎左衛門が存在したからこそ、名将・上杉謙信は幾度の合戦に出陣でき、殆ど無敗という戦績を挙げることが出来たのであります。(尤も、劉邦・蕭何のペアとは違い、謙信・蔵田ペアは、天下の覇権を握ってはいないですが。)

 永原慶二先生は、蔵田五郎左衛門の研究論文の結びとして、蔵田が多方面に渡って活躍した要因を以下のように記述されておられます。

『蔵田が、地付きの侍・領主層とは違って、伊勢・京都という全国経済・政治の中枢地帯にひろく人脈・情報網をもち、大名領国の存立に欠かすことができない対外(領国外)外交・貿易活動にきわめて適合的な存在であったところにある。』

 流石に、蔵田は上杉の蕭何である、という陳腐な比喩を用いていない偉大な永原先生でございますが、広い人脈・情報網を駆使した商人・蔵田五郎左衛門が、色部・柿崎などといった上杉軍実戦部隊長とは違った、上杉氏のキーパーソンであったという一事は間違いありません。

(寄稿)鶏肋太郎

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