山梨県の韮崎市、ぶどう畑の丘が広がる地の旧道沿いに「涙の森」(なみだの森)があります。
織田信忠の大軍に攻め込まれた武田勝頼は、新造した新府城に火を放ち、1582年3月3日、岩殿城を目指して逃亡開始します。
15000いた兵のうち、付き従った兵は約700までに減っていました。
そして、この韮崎の更科村に差し掛かった時です。
振り返ると、新府城が燃えて煙が上がる姿が見えます。
そのため、一行は涙したとされこの地は「涙の森」と称されるようになりました。
特に武田勝頼の継室・北条夫人は、この地で赤々と燃える新府城を見て涙したと言います。
その際「うつつには、おもほえがたきこのところ、あだにさめぬる、春の夜の夢」と一首も詠み、名残惜しみました。
新田次郎氏の小説「武田勝頼」にも「阿弥陀の森」として登場する地です。
しかし、本当にこの道を通ったとしたら、旧街道なのでしょうか? まずは躑躅が崎館を目指したのかも知れませんね。
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なお、更に東に行くと「回看塚」そして「泣石」と、いずれも北条夫人が振り返って涙したと言う言い伝えが残されています。
山梨にはこのように武田家にまつわる伝承の地や史跡がほんと多いです。
相模の北条家も四公六民と善政は敷いていたはずなのですが、同じ滅亡した者どうしなのですが、降伏したのと討死(自決)したのとの違いなのでしょうか?
下記が涙の森の付近ですが、ポイント地点は車を止めてもよさそうなところを差しています。
駐車場はないのですが、短時間であれば感謝しつつ止める事ができるところです。
いずれにせよ、ご近所の方に迷惑にならないようお願い申し上げます。
付近には更科姫の屋敷跡に更科姫の墓などもありますので、合わせてどうぞ。
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