松永久秀 ~戦国下克上~【戦国人物伝4】

戦国武将

下克上。
下が上に克つと書きますが、上手いネーミングセンスを持った人が作った言葉ですね。

中国からの輸入語ですが、誰がどのタイミングで使い始めたんでしょうか? ばさらという言葉も、下克上という言葉の一種です。 
今回松永久秀を書こうと思ったのも、主家を没落させて自分が成り上がっていく姿が下克上そのものだったからです。
まずその出自もわかっていません。農民の出だった、商人の出だったと言われていますが、成り上がっていくのに関係なかったのでしょう。
三好長慶に見出されて、初めは共同歩調で主家の長慶と上へと上がって行きます。

生きるために身につけてきた知恵、知識ではないのです。知識は知っていたら役には立ちますが、生きていくためには知恵が必要です。
長慶との共同歩調も、途中から簒奪へと向かいます。
長慶の嫡男、義興を毒殺し長慶を精神的に落胆させ、実権を握っていきます。
しかしです。他の大名家では、久秀のように氏素性のわからない者をここまで力のある家臣に進めることはしていません。
「松永」という苗字は、初めから名乗っていたものであり他家では名家の名跡を継がせるなど箔付けがされるところです。
これは信長の先駆者といっていいのではないでしょうか。
実力があれば上にも上がれる、という。末路も信長とそっくりです。
他の大名家、というよりも誰もが下克上を警戒します。いくら才覚があっても、新参なら地位は低いまま据え置かれることがほとんどです。
久秀は運も良かったのでしょう。
久秀の前半生はわからない部分が多いので、わかっている後半生からエピソードを3つ紹介します。

己に似たるもの、信長

前記事の「足利義昭」で、松永久秀については軽く触れています。
久秀には悪行と言われていることがあります。

➀主家簒奪 
➁将軍義輝弑逆
東大寺大仏殿焼き討ち

主にこの3つが三大悪行と言われています。これだけではないこともありそうな気もしますが、どれも自己の栄達を狙って起こされたことです。
➁の将軍義輝弑逆については説明を省きます。➀の主家簒奪から少し話していきます。

主家の三好氏は、長慶の嫡男義興が亡くなって長慶が意気消沈していきました。
久秀の地位は、死んだ義興と同等の幕府御供衆にまでなっています。
では久秀にとって己の野心を遂げるにはどうすればいいでしょう? 時系列に沿って話していきます。
それには長慶を利用して、勢力を広げていくことです。その長慶も永禄7年(1564)に病没してしまいます。
久秀にとっては、拠り所をなくしてしまった感が否めませんが、逆にもう誰の気兼ねなく行動することができます。
そこで久秀は、思い通りにならない将軍義輝を廃する➁将軍義輝弑逆を企てたのでした。
義輝を廃して、思い通りになる将軍を擁立する。時の権力者が用いてきた手法を久秀は実行に移したのです。
しかし。将軍を殺してしまう行為は、幕府の権威低下になるとは考えてなかったのでしょうか?
仮にも武家の棟梁、征夷大将軍です。簡単に殺されていては権威の低下に直結します。
6代将軍義教も赤松満祐によって大々的に弑逆されました。
その結果、守護大名の統制は義教以前より悪くなり、応仁の乱へと繋がっていきます。
久秀は三好3人衆と義輝を弑逆し、その後永禄11年(1568)14代将軍として義栄を擁立します。
この義栄という人物は、12代将軍義晴の兄と言われている義維の子です。


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下克上もここまで来ると、完全に実力主義になっています。将軍自身が殺されてしまうほどに、室町幕府は軽い存在になっていたのか?
自分はこの久秀という人物が、自身の体験から将軍を殺そうが代わりの者を立てれば何とかなる。
自信の表れということでしょう。
ここで、信長が登場します。義昭を奉じて上洛しようとしている、という情報が久秀にもたらされます。
久秀は三好3人衆との権力闘争をしていて、義輝弑逆後なかなか義栄を将軍にすることができませんでした。
やっと義栄を将軍にしたのはいいのですが、信長が上洛すると聞いて思案します。
久秀にとって、もっともよい選択肢は何か? このまま義栄を擁して信長と対峙するのか、それとも信長に帰順するのか。
三好3人衆との闘争は収まっておらず、信長と対峙しても見込みは薄いでしょう。久秀は信長に帰順することを選択しました。
その信長を久秀はどのように見ていたんでしょうか? 将軍を擁立する以前から存在は知っていたと思います。
似ている、と思ったかどうかはわかりませんが主家を倒して尾張を領国化し、美濃を手中にして今や義昭を奉じている。
成り上がり者です。実力があるから上洛することが出来た。
自分と同じ成り上がりなら、自分のことも使うはずだと考えたことと思います。
朝倉義景を攻めて、背後から浅井長政の裏切りによって攻められた際には久秀の手引きで信長を助けてもいます。

松永久秀の野心

久秀が野心を再び出し始めたのはいつからなのか。
大和国を平定しつつあり、信長には恩義を感じていたのではないのか?
下克上によって自分の地位を上昇させてきた久秀には、将来が見えたのではないだろうか。
このまま信長が勢力を拡大していけば、自分は相対的に小さな存在に成り下がってしまう。
ではどうするのか? 信長を消せばいい、その情勢は確実に出来つつあった。
将軍義昭を中心とした信長包囲網、信長がいなくなれば再び久秀にも出番がある。
元亀3年(1572年)、あれだけ闘争を繰り返した三好3人衆、三好長慶の後継者の三好義継と組んで信長に叛旗を翻した。
ですが、事態は久秀の思い通りに進みませんでした。
翌元亀4年(1573年)、包囲網の1角武田信玄が病死したことから大きく崩れ、義昭、義継、久秀、三好3人衆の順で信長に降されています。
久秀は多聞山城を信長に差し出して降伏、許されて信長配下に戻りました。

最後の意地

天正5年(1577年)、久秀はそれまで佐久間信盛の与力として石山本願寺攻めに加わっていましたが、離脱します。
信玄と並ぶもう一方の雄、上杉謙信と西国の毛利氏、石山本願寺が信長包囲網を作ろうとしていたからです。
そこに加わり、再び権力の座に戻ることを夢見たのでしょう。
信貴山城に立て篭り、叛旗を翻しました。信長は松井友閑を派遣して理由を聞こうとしましたが、久秀にはもうなにも話す気はなかったのでしょう。
1代の梟雄、松永久秀は同年10月に信貴山城の天守に火を付けて死にました。
信長は久秀が持っている平蜘蛛茶釜を救おうと城外へ出すように久秀を説得しましたが、平蜘蛛茶釜を叩き割って自害したのです。
最期は意地で信長に報いた、と思わせる出来事だったと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

(参考文献)

戦国大名」失敗の研究 瀧澤 中著
信長 戦国城盗り物語 外山 淳著
信長の謎〈徹底検証〉 加来 耕三著
戦国時代裏から読むと面白い 小和田 哲男著

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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