太原崇孚雪斎~黒衣の宰相の真実とは【戦国人物伝1】

太原雪斎

皆さんはこの人物「太原崇孚雪斎」の名を聞いて、誰?とはなりませんでしたでしょうか。
もし知っている方がいたなら「通」ですねと賛辞を送りたいです。
今回この人物を取り上げたのは、以前からこの太原崇孚雪斎(太原雪斎)について書こうと考えていたからです。

まずはこの人物がどの様な人物なのか、そこをお話したいと思います。

太原崇孚雪斎(太原雪斎)(たいげん-せっさい)は、今川義元に仕えていた僧です。
すなわちお坊さん・寺の住職です。


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今川家の合戦にて軍勢を率いたりもしましたので、家臣といってもいいのではないかと思いますが、出家の身なので立場が表現しづらい人物なのです。
しかし、今川家にとってはなくてはならない武将で、政治・外交・合戦を、今川義元に代わって差配していました。
なぜ今川義元に仕えることになったのか、というのがそもそもの疑問です。

太原崇孚雪斎の家系は、代々が今川氏譜代の家系であり、父は庵原氏・母は興津氏です。
譜代の家系なら、家を継いでもよさそうですよね。嫡子ではなかったから、仏門に入ったのか。そのあたりは推測するしかありません。
一説には父の死を契機に仏門に入ったのではと言われています。
京都建仁寺護国院にて18年修行しています。それだけの期間修行していたら、もうその後の人生は決まったようなものに見えます。
ところが。人生何が起きるか分かりません。当時の今川氏当主・今川氏親より、方菊丸の養育を頼まれます。
駿河に戻り、方菊丸の養育をと三顧の礼をもって招かれます。
18年修行して、今更俗世と関わる。
太原雪斎の心境は複雑だったのではないでしょうか。
結局方菊丸の養育を引き受け、駿河へと戻ります。
入った寺は駿河国善得寺。

ここからは、主なエピソードを3つ紹介します。

今川義元の家督継承・花蔵の乱

戦国大名・今川義元が誕生するのは、兄である今川氏輝・今川彦五郎の死という事態が起こったからです。
この2人、同日に亡くなっています。
事件の匂いがしますよね。
今川氏輝は病弱だったと言われています。
ですが急死するような状況ではなかったのです。
仮に流行り病に罹って、急死したとしましょう。
なぜその日に弟である彦五郎まで亡くなっているのか。
最早そこは誰かに暗殺されたとしか思えませんが、誰が暗殺したのかはその後の動きから判断するしかありません。
当時、氏輝が病弱だったこともあり、彦五郎が氏輝の後継と考えられていたようです。
この両名が亡くなった事で、家督を継ぐ機会が訪れた人物は今川義元でした。
しかし、義元は今川の家督相続を考えていた節はありません。
足利将軍家に習い、家督相続のゴタゴタを防ぐ目的で寺へ嫡子以外入れていました。
義元にとって、青天の霹靂だったでしょう。
では誰がこの事件を起こしたのか?それは玄広恵探という人物です。
今川義元にとっては兄にあたります。
兄なのになんで義元に家督がいくのか。
戦国大名には正妻と側室がおり、当然正妻が生んだ子どもが優遇されます。
今川義元の母は、今川氏輝・彦五郎と同じ母で寿桂尼
京の公家中御門氏の娘です。
玄広恵探の母は家臣の福島(くしま)氏の娘です。
さて、これでは玄広恵探には家督を継ぐ機会は来ませんね。
この事件の犯人は、福島氏だと思います。憶測ですが。
今川氏輝・彦五郎がいなくなったなら、玄広恵探に家督が転がり込む可能性があります。
そこにかけたのではないでしょうか。


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さて。
本題はいかにして今川義元は家督を継ぐことになったのかという事です。
ここで太原雪斎が活躍します。
家督相続が行われる際、後継者が決まっていない状況でどこに働きかければいいのか。
当時、まだ守護大名と戦国大名の明確な区分はなかったものと考えられます。
大名が裁定を求める機関は、幕府以外考えられません。
普段は軽んじていますが、いざ問題が起きた場合は幕府は利用されていました。
天文5年3月17日に氏輝、彦五郎は亡くなりました。
そして幕府から家督相続の許しが出るのは、5月3日です。
約2ヶ月弱で家督相続の許可を得たことになります。
雪斎、義元は駿河善得寺にて修行していましたが、天文3年に京の建仁寺に行き修行に入っていました。
この間に培った人脈で、家督相続の許可が得られたのだと考えられます。
しかし、玄広恵探側は屈しませんでした。周りには下克上の空気が充満しています。
そこで起きたのが花蔵の乱でした。勝ったのは今川義元側。
晴れて今川氏当主となります。

甲相駿3国同盟

 
この同盟はどの様なものだったのか。当時の状況を見直してみましょう。
天文14年頃ですが今川義元は駿河・遠江の2カ国を手中にして、三河を目指したいと考えていた。
武田信玄は、甲斐を治め、信濃の大半を版図に加えていた。
北条氏康は、関東地方を随時版図に収めつつあった。今川氏・武田氏・北条氏の領国は隣接しており、争いが度々起こっていました。
今川氏と武田氏の間では姻戚関係があり、武田信玄姉が義元の正室です。
北条氏と今川氏は、以前より敵対関係にありました。
武田氏も今川氏より援軍を頼まれて、北条氏と戦っています。
このような状況では、3者ともに背後を気にして思うように領国拡大できませんよね。
初めにこの同盟を考えたのは誰だったのか、同盟自体は3者にメリットをもたらします。
しかし、3者の中で立場的に弱い人物がいます。
それは武田氏です。なぜなのでしょう。
武田信玄は父である武田信虎をクーデターによって追放、今川氏に引き取らせています。
当時の武田氏は、信虎によって甲斐を何とかまとめていました。家臣たちの総意で、信虎は追放され武田信玄(武田晴信)は当主となります。
少しずつ飾り物の当主から領国を拡げて、家臣から認められるようになってきていました。
しかし。甲斐を1国治め、信濃にも領土を拡大させているとはいえ、2者との力の差は歴然としていたのです。
もし2者のうちどちらかが、1方を飲み込んでしまったら武田氏はすぐさま飲み込まれるでしょう。
この三国同盟は、誰より武田氏が求めていたのです。


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ここから武田氏側が動きます。今川氏・北条氏との争いに仲介者として関わり、一気に3国同盟までもっていこうとしていました。
武田氏家臣・駒井高白斎を通じて、今川氏・北条氏の間を往来します。今川氏側からは太原雪斎が、北条氏側からは北条幻庵が関わっています。
雪斎を含めた3者でのやり取りをし、今川氏・武田氏・北条氏の3者が相互に自分の娘を輿入れさせるということで決着がつきました。
天文23年、各氏が娘を輿入れさせ3国同盟は成立しました。

桶狭間での今川義元敗死の原因

桶狭間の戦いは、歴史的にかなり有名な合戦ですよね。
そこになぜ太原雪斎が関わってくるのか。
雪斎はこの合戦が起きる5年前に亡くなっています。
初めにお話しましたが、雪斎は政治・外交・合戦の全てに関わっていました。
このことは重要です。なぜなら、今川義元の代わりに雪斎がいずれも担っていたからです。
雪斎の死によって、義元が政治・外交・合戦を親裁することになりましたが、雪斎に任せていたため思うようにことが運ばなくなっていました。
表面的には政治・外交・合戦をこなしてはいましたが、肝心の補佐役がいません。
嫡子の今川氏真に家督を相続し、合戦に臨みましたが織田信長によって敗死してしまうのです。
雪斎が存命だったなら、この合戦は雪斎が出陣していたのではないでしょうか。
合戦を任せられる人材を育成せず、太原雪斎1人で今川義元の代行をしていた――。
桶狭間での義元敗死は、補佐役が不在だったために起きた出来事だったと思います。


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以上、稚拙な文ですが太原雪斎の紹介を終えたいと思います。
詳しく知りたい方は、参考文献を載せておきますのでそちらをご覧下さい。

「今川義元」 有光友學
「風林火山 武田信玄の謎」 加来耕三
「風林火山」 歴史群像シリーズ➅

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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コメント

  • コメント ( 1 )

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  1. いくさびと

    「太原崇孚雪斎」。太原雪斎のほうがしっくりくる名称ですね。彼の後、本願寺顕如、安国寺恵瓊、南光坊天海(諸説あり)以心崇伝と、いわゆる「怪僧」と呼ばれる人たちが続きますが、後にも先にも、彼を超える怪僧はいなかったのではないでしょうか。というより「僧侶」という肩書が適切かどうかも私は疑問に思っています。義元・信玄・氏康をまとめ上げる手腕を発揮できるような傑物が他にいるとは思えません。彼の死が無かったら今川家の桶狭間での敗戦はなかった、というのはよく言われることですが、勝敗以前に、そもそも出兵させなかったのではないでしょうか。義元の西上がり上洛説、織田との決戦説といろいろありますが、いずれにしても兵力不足。雪斎がそのような乱暴な出兵を是とするでしょうか…