二次資料について~真実を見極めるための知識~

二次資料

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歴史資料は一次資料と二次資料の2つに分解できます。
今回はそのうち二次資料について解説していこうと考えておりますが、その理由を最初に述べておきたいと思います。

新しい事実がわかった!!それ本当??

近年、大河ドラマなどが始まると、その分野に関する歴史研究は活況を呈し、新しい歴史資料を発見され、新事実が明らかになったなどと報道されることが多くなります。
しかし、その発見された多くものは二次資料と呼ばれるものとなります。
この二次資料、それ単体では歴史的事実を明らかにしたというには根拠に乏しいということを指摘しておきたい。
例えば、来年の大河ドラマ明智光秀はその子孫と言われるA・K氏が執筆した本を元に製作されるそうです。


なかでも本能寺の変で明智光秀がなぜ裏切ったかなどが時代考証する上の争点となりそうです。
無論、このA・K氏も本能寺に関する新たな説を提案しています。
しかし、その方法は二次資料を事実とし、その前提を踏まえた上で明らかにしたものです。
その虚実は是正されるべき対象だと考えています。
こういった問題関心から二次資料を解説していきたいと思います。
そうすることで大河ドラマ明智光秀の見方を考えるきっかけとなってほしい。

一次資料とは

 二次資料とは一次資料との関係を対比的に見るために用いられた用語です。
故に一次資料の説明は必要でしょう。
一次資料というのは、端的に述べると、同時代の人間が著した手紙、日記、絵図などを指します。
当時の肉声とも言いかえることができます。
歴史学研究者は主にこういった資料を元に歴史的事実を立証しています。
この手法をとって本を書いている著者の指摘は信用してもいいと思います。

二次資料とは

次に二次資料を端的に説明すると、後世の人々が作成した伝記や由緒といったものを指します。
ここで味噌なのが、後世の人が創造したものであるという点です。
故に後世の脚色が多いことを考慮しなくてはいけません。
なぜ後世であることが問題なのか。
それは所詮伝聞よって伝えられたもの、また自分の都合の良い解釈を乗せているためです。
例えば、江戸時代に徳川氏を追い詰めた真田氏の物語が流行ったのは、徳川氏の威信を貶めないために、真田氏というのは最強の一族だと印象づけたかったからです。
いわゆるプロパガンダと言うやつです。
他にも、かの有名な太田牛一著「信長公記」も一応二次資料という扱いです。
これについては一次資料との照らし合わせることによって事実が過大に含まれている点、また織田信長の右筆であった太田牛一が執筆した点などから一次資料に匹敵する好資料として、認識されています。
ただし、「信長公記」にこういったことが書いてあった!だから、私のこの説は事実だ。
といっても信憑性がありません。
やはり、当時の肉声と照らし合わせることで、ようやく「信長公記」が事実であると認められます。
やはり、これも後世のものであるという認識の元でしょう。
こういった良質なものも有る一方で先程二次資料に挙げた由緒というものはひどいものです。
由緒とは自分の先祖の出自や活躍を書き連ねたもので、自分の正当性・正統性を江戸幕府、大名、藩役人などに示すために書かれたものです。
やはりこれには自分をよく見せようとしてか、事実に反することがしばしば書かれています。
例えば、「自分の先祖は◯◯という土地を徳川家康様に認められた。
故にこの土地は自分のものである」といったように、自分の正当性と正統性を主張するのである。
なおかつ自分の蔵にはこういった家康様の手紙を眠っていますと、その手紙を見せて納得させます。
しかし、その根拠となっている手紙が偽文書である場合がほとんどです。
つまり、江戸時代につくられたものは嘘が多いと訝しんで読んでいくべきです。
以上、二次資料の性格とは、それ単体では事実と認めがたいもの、脚色が凄まじいもの、と指摘することができます。


人物史への具体的影響は??

前述で紹介した本能寺の変に関する議論は私の手にあまるものですので、とても手がつけられません。
故に別の話題を提供したと思います。
ある年に放送された大河ドラマ女領主井伊直虎を覚えておられるでしょうか。
そのときにも研究者・作家問わず、井伊直虎に関する本・研究が沢山世に排出されました。
そのなかで一躍話題となったのが、「井伊直虎男説」です。
詳細は省きますが、これは井伊美術館の人が発表した説です。
井伊美術館によると、享保20年に彦根藩の幕臣が伝え聞いたことをまとめた「雑秘説写記」が出てきて、そこに直虎が男であることが記されている、と主張されています。
しかし、江戸時代の大名家は基本的に男系相続です(無論例外も少なくありません…南部藩とか)。
その原則に外れるものを改ざんしたと解釈するのが自然です。
一概にはいえませんが、江戸時代は男尊女卑の風潮が広まった時代のようですから。
それに井伊直虎関連の一次資料は殆ど残っていません。
それを良いことに、二次資料から分析した勝手な推測で、それを事実とし、説を立証してしまう人が少なくありません。
これは他の歴史事象でも同じことがいえます。
その最たる例の一つが本能寺の変でしょう。
歴史家が勝手な妄想を展開して、それが事実として定着した例も少なくありません。
毛利氏が関わった戦争の様子などは(今は大分実証的になってきましたが)江戸時代に編纂された軍記物「陰徳太平記」によっている場合も少なくありません。
他にも戦国大名に残された美談などはほとんど脚色とおもってください。
江戸時代の人が勝手におもしろ可笑しく考えたフィクションに過ぎないのですから。


戦国武将を考える上での注意点

簡潔に済ませてしまいますが、戦国部将の美談や逸話などを多分に引用して、事実を述べている人の本には気を付けましょう。
また時に状況証拠ばかりを掻き集めて、事実として述べている本もあります。
良くトンデモ本を熟読し、したり顔でそこに書いていある嘘を歴史的事実として語っている人を見たりします。
今回の記事はそういった人たちを論破するためのアリアドネの糸となったのではないでしょうか。
もちろん、今回垂らした糸は事実の一端です。
今回の叙述では物足りない、説得的ではないという人もいるでしょう。
その時は是非ともコメント欄にてお声をいただければと思います。

(寄稿)証秀

織田信長は戦国最強の革命児なのか??

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