飯富虎昌(おぶ-とらまさ)は、甲斐・武田家の家臣である飯富道悦(または飯富源四郎)の嫡男として1504年に生まれたとされるが諸説ある。
初名は飯富信昌。
父と考えられる飯富源四郎は、武田信虎の時代となる1515年に、富田城主である大井信達・大井信業との戦いにて、飯富道悦と討死したとある。
このとき、武田勢は、今井信房、於曽備州、小山田大和守、甘利衆も討死しているが、一緒に命を落とした飯富道悦(おぶ-どうえつ)が父である言う説もある。
スポンサーリンク
飯富と言う漢字はそもそも「飫富」と書き「オブ」と読み、甲斐国巨摩郡飯富郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町付近)が本貫地であったが、その後は庶流が多く、飯富虎昌は亀沢領を治めた飯富一族と推測される。
いずれにせよ、飯富虎昌は弟・山県昌景と共に武田信虎に仕えました。
しかし、甲斐守護・武田氏と扇谷上杉氏との婚姻に反感を抱き、1531年には反旗を翻して甲府から退去して、栗原兵庫・今井信元らと昇仙峡の御岳に籠って武田信虎と敵対した。
この反乱に呼応して、西郡の大井氏、諏訪郡の諏訪頼満(碧雲斎)らが甲斐へ侵攻しますが、韮崎の河原部の戦いにて武田虎は国人衆を撃破し、反乱は平定され、飯富虎昌も降伏した。
ただし、降伏したあとも臣従が許されており、以後は、強力な武田譜代衆として活躍する。
1536年、小田原城主・北条氏綱が駿河へ侵攻した際にも、今川家の援軍として、武田信虎と出陣し戦功を挙げている。
また、1538年には、諏訪頼満・村上義清と少ない兵にて戦うも打ち破り、飯富虎昌は首級97を挙げたとされる。
1541年、武田家の宿老である板垣信方・甘利虎泰らと共に、武田晴信を擁立して武田信虎を駿河に追放したあとも、宿老として武田晴信を支えた。
1548年、上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰が討死するが、飯富虎昌(飯富兵部少輔虎昌)の赤備えは健在で、以後は武田軍団の中心として常に最前線で戦った。
1553年、佐久の内山城代を命じられていた際には、長尾景虎(上杉謙信)と村上義清の8000に囲まれている。
しかし、わずか800の手勢で撃退し「甲山の猛虎」と称されまた恐れられている。
スポンサーリンク
1561年、第4次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊を飯富虎昌が任されて指揮を執った。
その後、武田信玄の嫡男・武田義信の傅役(後見人)に任命され、武田家の中でも随一の宿老となっており、武田二十四将の一人に挙げられる。
しかし、武田信玄と子の武田義信の不信感が強まると、今川義元の娘を妻として迎えている武田義信と共に謀反を企んだとし、弟(甥)の飯富三郎兵衛(山県昌景)が、武田信玄に密告。
そのため、武田信義は幽閉され、飯富虎昌は謀反の責任を取る形で、1565年10月15日に自害した。享年62。
墓所は山梨県甲斐市亀沢(旧中巨摩郡敷島町)の天沢寺。
これにより、飯富家は断絶し、残された家臣は山県家の名跡を継いだ、弟・山県三郎兵衛昌景に引き継がれている。
なお、飯富虎昌の子・飯富昌時は当時4歳で、事件のあとに匿われて今日に赴くと、公家・三条家を頼って古屋姓を称し古屋昌時と改名している。
と言う事で、飯富氏歴代の菩提寺である天沢寺にお参りして参りました。
天沢寺の飯富虎昌と山県昌景の墓
天沢寺(てんたくじ)は、甲斐市の市街地では無く北部の山間にあります。
1472年に鷹岳宗俊が草庵を結んだあと、1475年に亀沢領主の飯富虎昌が鷹岳宗俊を招いて天沢寺(天澤寺)を創建したとされます。
この鷹岳宗俊は、郡内(都留市金井)の用津院も創建しおり、武田勝頼の時代には譜代家老・山県昌満が、天沢寺を再興しました。
飯富虎昌の墓と山県昌景の墓は、天沢寺の本堂の左手奥にある墓地の一角にあります。
案内板はあるのですが、場所がちょっと分かりにくいですので、下記の写真類を手掛かりに探してみてください。
その天沢寺の墓地の中段付近、上段(上のほう)に行く道ではなく、その下の部分となりますが、この墓地には武田菱のお墓も多く、武田一族の方も眠っているようです。
飯富虎昌の墓と、山県昌景の墓がご子孫によって守られています。
下記が飯富虎昌の墓と山県昌景の墓との事です。
さて、天沢寺へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が境内駐車場の入口となります。
山門の右脇から入れます。
ただし、天沢寺までの道は結構狭いですので、大きなクルマだと厳しいかも知れません。
カーナビ設定して行くと良いでしょう。
ちなみに、幽閉されて武田義信も結果的には腹を切っていますが、武田義信の墓は、甲斐・善光寺近くにある東光寺となります。
・武田信虎の栄光と挫折の生涯とその人物像
・村上義清~北信の雄・葛尾城主
・諏訪・信州 城攻め紀行 2-4 上田原古戦場
・板垣信方~武田重臣として活躍した名将~板垣信方の墓も
・武田義信と諏訪頼重【東光寺】甲斐の由緒あるお寺
・山県昌景~武田家を支えた重臣・飯富三郎兵衛
・おつやの方と秋山虎繁(秋山信友)~織田家に処刑された命運
・設楽原の戦いの地にある山県昌景の墓
コメント
コメント ( 1 )
トラックバックは利用できません。
天澤寺の墓標、実は私の祖父が書いたものです。
祖父は戦時中、トラック諸島で多くの戦友を亡くし、自身が亡くなるまで鎮魂の写経を綴り続け、師範の資格も取っていました。
こうして取り上げていただけることは、きっと、祖父も喜んでいることと思います。