大磯城(小磯城)と越後五郎四郎~相模国の歴史ある城「大磯城山公園戦国時代絵巻」も

現在、東海道である国道1号線を見下ろすような形となっている大磯城(小磯城)では、縄文土器が発掘されたり、古墳時代の横穴墓が山肌に見受けられます。

大磯城の横穴式墓群

小田原から鎌倉へ往来する場合に、必ず通行する東海道の要所の抑え・監視として、室町時代になって小磯城が築かれたと考えられます。

1477年に長尾景春が古河公方と共に長尾景春の乱を起こすと、神奈川県では小沢城の金子掃部助、溝呂木城溝呂木正重小机城の矢野兵庫助などが呼応しましたが、この大磯城の越後五郎四郎も協力しました。


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この反乱に対して扇谷上杉家の名将・太田道灌は扇谷上杉家に味方する相模勢と合流して1477年3月18日に溝呂木城を攻略すると、大磯城(小磯城)の越後五郎四郎は降伏しました。
この降伏は、太田道灌が攻め寄せて戦闘になったのか、それとも戦闘を行わずに早く降伏したのか定かではありません。
しかし、旧・吉田茂邸の脇、大磯城の麓となる国道1号を横切る形の川は「血洗川」と呼ばれ、兵士が刀の血や体に着いた血などを洗ったと言う言い伝えが残ります。

現在の遺構としては、日本城郭大系が指摘しているとおり、旧三井邸のある標高48.6m頂上部が東海道の監視台。そして、現在展望台がある部分は有事の際の駐屯地的な役割として機能させ、小磯城は主に東海道の監視をしたと容易に推測できます。

大磯城からの展望

しかし、当時、まだ大規模な城の工事を行わない時代でもありましたので、明確な人工の堀切などは見受けられず、ほとんど自然の地形をそのまま使用した城であったと考えられます。

大磯城(小磯城)

その後、伊豆の北条早雲(伊勢新九郎)が1495年頃に小田原城を奪取し相模へ進出すると、1512年に三浦義同(三浦道寸)の岡崎城を陥落させているので、それより前に大磯城(小磯城)も北条家に降ったか攻められて陥落したものと推定できます。

北条早雲の支配下となったあとは、東海道の監視程度の役割はあったかも知れません。
ただし、戦国の城にするには、兵の収容規模が小さかった事もあったため、城として機能は持たなかったものと考えられます。

ちなみに、三井家別荘がこの小磯城跡にあった時代の昭和13年に、織田信長の弟である織田有楽斎(織田長益)が建てた「茶室」も移築されていました。
現在は石碑のみで、茶室は犬山城下へと移されています。

大磯城山公園戦国時代絵巻

大磯城山公園では「戦国時代絵巻」がほぼ毎年開催されています。

太田道灌が小磯城へ攻め寄せた場面などが演じられ、公演後には甲冑武者との記念撮影(もちろん無料)や甲冑体験などもあります。

毎年GWの開催でしたが、開催年によって日にちは変わる事があります。
また、雨天の場合には中止となり、残念ながら代替え日程などはありませんが、これは仕方ないです。

公園内で行われる場所は、茶室「城山庵」などの場合が多いようですが、その年によって変更があるかも知れないので訪問時によく確認願いたく存じます。

大磯城山公園の案内(駐車場など)はこちら
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