杉谷善住坊の解説~織田信長を狙撃した未だに謎多き戦国スナイパー

太田先生

杉谷善住坊とは

織田信長が無念の退却を強いられたことで知られる金ヶ崎の戦いですが、彼を追い込んだのは朝倉氏の謀略、それによる浅井長政の裏切りばかりではありません。
撤退中の信長は暗殺者に銃撃されており、まさしく九死に一生を得ていた状態だったのです。その暗殺者こそが、本項の主人公・杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅうぼう)でした。


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信長暗殺を目論んだ狙撃手、すなわち“戦国のスナイパー”として有名な善住坊ですが、彼の出自は今も詳細ではなく、杉谷の姓や地名を根拠とする説を列挙すると以下の通りです。

・甲賀忍者でも有名な地侍・甲賀五十三家の杉谷家出身説。善住坊本人を忍者だとする説もあり。
・伊勢国菰野(三重県三重郡)の杉谷城主説。
・伊賀国杉谷(三重県名張市)の出身説。

この他にも武士や忍者ではない猟師や賞金稼ぎ、ないしは根来衆雑賀衆と言った傭兵・僧兵集団(名前に“坊”と付くので僧とする見解もあり)の関係者とする説もあります。

また、善住坊が信長を狙撃した理由については娘が信長と敵対した六角義賢の側室になっていた縁で娘婿から依頼を受けたとする説が有力ですが、甲賀と対立した信長への怨みがあったとも、或いは単なる腕試しとする見方も存在し、前述した賞金稼ぎ説と共に善住坊の動機も謎が少なくありません。

織田信長暗殺未遂事件

いずれにせよ善住坊が信長の命ひとつを狙って行動を起こしたことは紛れもない事実で、彼は元亀元年5月に暗殺作戦を決行します。
信長公記』によると、すでに帰京していた信長達は、各地の豪族や百姓一揆を煽動する浅井氏によって封鎖された八風街道を避け、近江国の千草越え(千種街道)を通って岐阜に向かう道中でした。

そして、鉄砲の名人だった善住坊はそれを待ち受け、12、3間(1間が約1.82mなので21m強~23m強)を隔てた距離から、二つ玉で容赦なく信長を狙撃しますが、天の御加護があった信長の身を少しかすっただけで助かったと記しています。
愛知県の伝承では、万松寺の不動尊に護られたことで信長の懐中にあった餅に銃弾が命中して助かったと伝えられています。

驚異的ともいえる信長の強運に阻まれ、暗殺に失敗した善住坊はいち早くその姿をくらまし、織田勢は彼を討ち取るどころか捕えることすらできずに終わりました。


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逃亡生活の終わりと刑死

その後、善住坊は3年に渡って潜伏生活を過ごしますが、信長の配下で同地の領主・磯野員昌によって所在を突き止められ、ついに捕えられました。彼が捕まったのは堀川村にある阿弥陀寺(現・滋賀県高島市)に身を隠していた時で、その名前や寺を潜伏先としていたことなどから、僧侶説ないしは寺院と関係が深かったことを匂わせます。

磯野氏は主筋である信長に善住坊の身柄を引き渡し、織田家家臣の菅屋長頼と祝重正による尋問を受けた彼は、竹製のノコギリで首を切断する鋸引きと言う極刑に処せられて世を去ります。享年は、出自と同様に不詳と最後まで謎の多い人物でした。

残された記録は極少ながらも、三英傑のひとりである織田信長を死の寸前まで追い込む活躍を見せた杉谷善住坊の戦いは様々な物語を生み、大河ドラマ『黄金の日日(演:川谷拓三さん)』を始め、多くの小説やコミックの題材になっています。

また、信長を狙撃した際に隠れた岩や潜伏した阿弥陀寺、そして銃撃を防いだ「身代わり餅」を信長が貰い受けた舞台となった万松寺など、善住坊ゆかりの名所も残されており、“戦国のスナイパー”はファンの心を今もなお射止め続けています。


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参考文献、サイト

織田信長・フォトストーリー 
信長・千草越えの危難 
阿弥陀寺と杉谷善住坊
万松寺ホームページ

(寄稿)太田

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磯野員昌の解説 織田勢に肉薄した近江の猛将と磯野行尚

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