武田勝頼~偉大な父と比べられて~ 【戦国人物伝6】

武田勝頼

前回の記事で、武田信玄を取り上げましたが今回はその息子・武田勝頼です。
勝頼の代で武田氏は滅びてしまいます。家を滅ぼした者が受ける避難の声は、その当人に非があったと言われます。

果たしてそうなのでしょうか? 家を滅ぼさないように、あがいても結局滅びてしまうこともあります。
当人に非がある場合ももちろんあります。例を上げるなら、朝倉義景
朝倉氏は義景の代で5代目となっていました。初代の孝景は17か条の家法を定めています。
戦国時代の幕開けのような、実力主義を奨励する家法です。
ですが義景の代ではそんなものは忘れ去られていました。家臣の登用は実力で、となっていましたが世襲の宿老をいつの間にか定めていました。
そして義景当人にも、戦国武将としての資質に欠ける部分があったからこそ滅びたのです。


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では勝頼と義景を比べた場合、同じく家を途絶えさせた者としてどちらが評価できるのか?
これは完全に勝頼が評価できると思います。何故なら、勝頼は信玄の代より領土を一時的には拡げているのです。
歴史は、敗れた者に非情です。何の弁解の機会すら与えてくれません。
それは勝者が歴史を作っているからです。敗れた者に冷淡なのも、勝者にとって不都合な真実もそこにはあったりするのです。

勝頼の生涯について触れます。
武田勝頼は、父武田信玄、母は諏訪頼重の娘、諏訪御料人。勝頼は4男でした。
この時点で勝頼が家督を継ぐことを想定はされていません。嫡男として義信がいました。
勝頼は信玄が滅ぼした諏訪氏を継ぐ者として認知されています。諏訪四郎と呼ばれていました。

勝頼の人生の転機は、嫡男義信の廃嫡から始まります。信玄と義信は、今後の武田氏がどのような路線で領土を拡げていくかで意見が対立しました。
主張としては、以下の通りです。

・武田信玄

今川義元亡き今、氏真を攻めて駿河を版図に加えて海軍を創設する。陸・海の両面からの作戦を進められる。
経済的にも駿河は手に入れるべきであり、いずれは上洛するための侵攻拠点である。

武田義信

現状を考え、三国同盟を維持し飛騨を狙う。
その後は日本海ルートで上洛を進めていく。

どちらの主張も、頷けると思います。今川義元が桶狭間で信長によって討たれ、氏真が家督を継いでいましたが三河の徳川家康に離反されてしまっています。
飛騨を狙うことは、まずは取りやすいところをとっていこうということです。
どちらも共通するのは海を利用したいと考えていた点です。

信玄と義信。本来なら、間を取り持つ存在がいなければ対立は収まりません。
この時点で信玄の弟、信繁は死んでいます。甲斐の副将と呼ばれた信繁は。
いつまでも対立しているわけにもいきません。長引けば信玄派と義信派に分かれ、内紛が起きかねません。
説得に応じない義信を遂に謀反の疑いがあるとして、拘束します。そして最後まで説得を試みますが、義信は応じませんでした。
説得にかけた期間は2年。信玄としても、嫡男を失いたくなかったのでしょう。
ですが猶予は残されていません。親族・国人衆に血判の起請文を提出させて、義信を自害させるのです。


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先に勝頼は4男だと書きました。しかし、義信亡き今次兄の龍宝は盲目で出家しています。
3男の信之は10歳で死んでおり、嫡男の座は勝頼に回ってくるのです。
国人衆は勝頼をどのように見ていたのか、と言われればやはり諏訪を継ぐ者です。
今まで自分たちと同列にいた者が、急に当主になる。感情的にも面白いものではなかったでしょう。
しかしそれでも勝頼しかいませんので、信玄はとりあえず勝頼を後継として駿河を攻めていくのです。

では勝頼のことを3つトピックとして上げていきたいと思います。

信玄死後の領国経営

元亀4年(1573)。この年信玄が西上の道半ばで、病によって亡くなります。
勝頼にとっては父信玄の死後、領国を固めていく必要があります。
義信の廃嫡後、勝頼は躑躅ケ崎館にて信玄より後継者としての教育を受けています。
しかし。本来これは義信が受けていたもので、勝頼は急に付け焼刃で学ばなければいけませんでした。
名前1つとっても、武田四郎勝頼のまま。この名乗りも、武田氏歴代の当主と同じように将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのが通例ですが勝頼は受けられませんでした。
これでは武田氏当主として軽く見られてしまいます。
家臣たちも信玄だからこそ従っていたという部分もあり、勝頼のやり方を傍観していました。

勝頼にはいくつか選択肢があったように思います。

・家臣たちを上手く遣い、我を抑えて領国経営にあたっていく。
・信玄と自分との違いを出していく。

主にこの2つに要約されると思いますが、勝頼は後者を選択します。
領国経営として、ではどこに信玄との違いを出していくのか? 
この元亀4年8月には、徳川家康が長篠城奪還を目指して攻め陥落。なにも行動しなくては領土を削られていく。
そして敵のこの動きは、信玄の死が既に知れ渡っている証拠でもあります。
信玄はその死の直前に、3年は自分の死を公表しないよう勝頼に伝えていました。しかし、3年もの間周りの勢力が黙っているはずもありません。
家臣たちは、焦る勝頼を尻目に積極的に関わろうとしませんでした。


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では信玄が死んで、敵が動くとなればどういった行動を取るのか?
まずは内部の攪乱をを狙ってきます。内応を誘い、所領安堵を条件に武田氏の諸将を下そうとするでしょう。
信玄が生きているならまずは成功しませんが、信玄が死んで代替わりで勝頼が当主となったため家臣たちとの間に空白が生じるのです。
長篠城が陥落したのも、山家三方衆の切り崩しをされて奥平貞能を寝返らせたことが大きな要因でした。
対応策として早急に家中をまとめて、家臣たちを統括する。そして、領土を拡げていき恩賞として与えて更に家臣たちのモチベーションを上げていく。
ですがこの早急に対応しなければならないことは、皮肉にも信玄という偉大な父を持っていたがために阻まれます。
この状況は信玄の家督相続時、信虎の時もそうでした。
勝頼には酷だったと考えられます。信玄のように自重していては領土を削られます。
なら、信虎の方針を踏襲するしかなかったのです。

長篠城攻略後、織田・徳川連合は攻勢を強めて東美濃、北三河へ侵攻してきていました。
勝頼は強引に家臣たちを説得してまずは東美濃へ出陣します。武田氏当主として初めての出陣です。
目指したのは織田方の明智城。織田軍の援軍が山道の険しさに阻まれている隙に、明智城を落とします。
次は矛先を北三河に変えて、足助城武節城と陥落させました。

武節城

残るは前年に落とされていた長篠城を奪還すれば北三河を制圧できます。
徳川家康が同盟相手の上杉謙信に武田領を攻めるよう要請していなかったら、勝頼は三河制圧を目指していたかもしれません。

このように勝頼の領国経営は、他国に侵攻することで強引に家中をまとめていくという方法になっていきました。

急進的な改革

侵攻策によって家中をまとめようとした勝頼。そしてそれだけではなく、改革を試みていきます。

・鉄砲の活用
・兵農分離を目指す
・人材の登用

鉄砲は武田軍でも少数なら使っていました。
ですが大量には運用できません。何故ならかなりの高額だったからです。
鉄砲1挺の値段は現在の価格で40万円ほど。国産化が進んで、安くはなっていましたがそれでも高額です。
鉄砲があるだけでは使うことができませんので、火薬も入手しなければいけません。
1挺使うのに一体いくらかかったのか。ちなみに鉄砲を1回使うごとに現在の貨幣価値換算で3000円位だったようです。
この鉄砲と火薬。自分たちで作ればいいじゃないか、と思いませんでした?
結論から言いますが、無理だったでしょう。鉄砲は近江国友村で製造していました。
火薬の原料硝石も貿易によってもたらされる物です。
つまり。経済力があり、この2つを持っているものが大量に使えたのです。
織田信長だけがほぼ独占していたと言っていいでしょう。勝頼は甲州金を使い購入しようとしましたが、信長のように大量に使うまでにはいたりませんでした。

兵農分離は、信長が実践し成功させていた改革です。
ここにも経済力が必要とされるのです。甲斐は後進国であり、前の信玄の記事に書いたとおり石高22万5000石です。
勝頼の代では約100万石にまで領土は拡がっていましたが、保守性の強い地域であり国人衆が受け入れることは困難です。
信長も命懸けで兵農分離を推進しましたが、信長には経済力がありました。
まずは経済力をつけないと、上手くいきません。


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どこのどんな小さな会社、市町村だろうと権力者が代わったなら、権力のおこぼれに預かろうとするのは人間心理としてあります。
勝頼は先代信玄からの家臣ではなく、自ら人材を得ようとします。
長坂長閑斎、跡部大炊助を重用していきます。ですがこの重用も、家臣たちの心をどんどん離していってしまいます。
信玄に従っていた家臣たち。ただでさえ先代と比べてしまうのに、ないがしろにされてはもうついてはいけません。
ましてこの長坂・跡部の両名は信玄から人柄を警戒されていた人物です。
勝頼に上手く取り入ったのでしょう。

以上のように、急激に改革を行おうとしましたが、歴史としてみるならこれは失敗です。
勝頼には忍耐が必要だったと思われます。

強すぎる大将

武田信玄の死後、武田氏は勝頼統治の中どのようになっていったのか?
元亀4年(1573)から東美濃、北三河へと版図を拡げて信玄が落としていなかった高天神城も落とし、順調に領土の拡大を成し遂げています。
それを黙って見ているほど、周りは甘くありません。特に領土を削られている織田・徳川双方はそうです。
俗に長篠の戦いと言われる戦が天正3年(1575)に起こります。勝頼の代となって初めて大敗してしまいました。
この戦、勝頼が長篠城を奪還し北三河制圧に乗り出したことから事態が動いて、戦に発展していきます。
初めは家康のみで対応しようとしていましたが、兵力差があり信長に救援を求めます。
信長が救援に応じて、大軍を送り込んで来ています。

この時点で、勝頼には撤退の選択肢がありました。
1度体制を立て直し再度攻めるという。信玄なら忍びを放って情報を得ているはずです。勝頼は情報を得ていなかったのか?
得ていたはずです。だからこそ家臣たちは撤退を進言していたと思われます。
勝頼はこの進言を素直に受け入れるべきだったのです。
これまでの経緯を考えれば、勝頼の目にはどう写ったでしょう?

・今長篠城が落ちようとしている。
・織田・徳川がどうだというのか? 父信玄に負けている。
・家臣たちは自分をまだ信じていない、だから撤退などと言ってくる。

兵力でも情勢でもありません。あったのは意地だけだったと思われます。
意地を貫いた結果、大敗を喫してしまうのです。信玄を支えた家臣たちの大半を失って。


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勝頼自身が戦に負けておらず、慢心もあったと思います。兵力差が
織田・徳川連合軍3万5000
武田軍1万5000
と2倍以上開いているのにも関わらず戦に臨んだのです。兵力差が開いていた場合、よほど工夫しなければ勝てません。
鉄砲の装備数も織田・徳川は3000挺だったと伝えられていますので、最早撤退が現実的な対応策だったのではと思われます。

長篠の戦い3段構え

外交政策でも最大の失敗を犯してしまいます。1度は北条との同盟を復活させましたが、越後の上杉謙信の死によって破綻させてしまいます。
長篠の敗戦から3年後の天正6年(1578)のことです。上杉氏では、後継者を誰にするかという問題がありました。
1方は上杉景勝、もう1方は上杉景虎。景虎は北条氏からの養子です。
北条との同盟関係を考えたなら、影虎を支援するのがベターな選択でしょう。
初めは景虎を支援していました。ところが、勝頼は途中から景勝支援を表明します。
景勝側からの、臣従を誓うという言葉に乗って。側近の長坂・跡部へ景勝側からの金銭の受け渡しもありました。
この申し出を勝頼はなぜ受けたんでしょう?
今までのいきさつを考えたなら、臣従はありえない話だと思います。この後継者争いは、景勝に不利でした。
関東の北条氏のバックアップを受けた景虎が優勢でした。景勝側は、なりふり構っていられる状態ではなかったのです。
勝頼にとっても、この申し出は断るべきでした。北条氏と同盟関係を結んでいましたし、ここで景勝を支援したなら同盟は破棄することになります。
その場合どうなるか?勝頼は敵を増やすことになります。景勝が本気で臣従すると考えていたのでしょうか?
結果、景虎は自害し景勝が上杉氏当主となります。勝頼に臣従することもなく。

勝頼は3方向から攻められる情勢となります。危険を感じ始めたのか防備のため城を築城し始めます。新府城という。
敗戦を経験し、内に篭る選択をしたのでしょうが、撤退した後体制を整えるのと敗戦の後に急に防備を固めるのでは内外への印象は後者の方が圧倒的に不利に働きます。
そこからは坂を転げ落ちるように衰退し、天正10年(1582)に武田氏は滅亡しました。身内に裏切られ、家臣も寝返るという悲惨な末路をたどったのです。

読んでくださりありがとうございます。

(参考文献)

「風林火山」武田信玄の謎<徹底検証> 加来耕三著
武田信玄 武田三代興亡記 吉田龍司著

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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コメント

  • コメント ( 1 )

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  1. いくさびと

    今となっては結果論ですが、信玄も勝頼も、上杉家ともう少しうまくやれなかったのではないかと思います。信玄は越後との対立の果てに信繁を失い、記事にあるような信玄と義信の調整役がいなくなります。勝頼は小舘の乱。自分が長男ではないからかもしれませんが、景勝に味方をする=北条が敵に回ることはかんがえられたはず。どちらが勝つにしても家督争いで疲弊しきった上杉と、奇しくも父氏康と比べながらも北条最大の版図を広げた氏政、どちらが頼りになるか、わかりそうなものですが・・・