多目元興と多目元忠~北条家の最古参であり河越夜戦での大活躍も


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多目元忠(ため-もとただ)と言う小田原・北条家の家臣がいます。
多目元興(ため-もとおき)の子で、多目周防守元忠と称しています。多目六郎元忠とも言います。

多目家(多米家)の居城は青木城です。
現在の神奈川県横浜市神奈川区高島台にある本覚寺周辺約148貫と考えられていますので、横浜を治めていたと言えるでしょう。
ただし、どうも、北条早雲が相模を平定したあとに知行したと推測されます。

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父・多目元興(多目権平、多目権兵衛、多目玄蕃)は、伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)に仕えると「ため」はタメでも、漢字を多米氏とも名乗っています。
ただし、それ以前は、桓武平氏末裔の鷲尾姓を称していたようです。
多米氏を名乗った由来は、鷲尾氏が治めていた三河と遠江の国境の多米邑(多米城)から来ていると考えて良いでしょう。

この多目元興(多米元興)は、伊勢新九郎が韮山城を取る前後からの古い家臣です。
このように、伊勢新九郎(伊勢盛時)に古くから仕えた家臣としては、大道寺重時(大道寺太郎)、在竹兵衛、荒川又次郎、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛とおり、小田原城を北条家が獲得す目さ井には、多目元興(多目権兵衛)が先陣大将を務めたとされています。

このように、北条早雲と共に北条家の基礎を築くのに尽力した6家は「御由諸家(御由緒六家)」。
これに、相模の松田盛秀も加えると「草創七手家老」と呼ばれます。

しかし、荒木兵庫頭・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛尉といった武将のことは、良く分かっていません。
大道寺重時(大道寺太郎)は、北条早雲がまだ小田原城を奪う前の、1496年に当時の小田原城主・大森藤頼の要請を受けて、弟・伊勢弥次郎らを小田原城に派遣し、関東管領・上杉顕定からの攻撃を防いだ際に、大道寺重時(大道寺太郎)は討死したとも考えられています。

父・多目元興の生没年は不明ですが、その子の多目元忠も生没年が不明です。

ただし、多目元忠は北条氏康の時代、北条家の「軍師」として見受けられます。

扇谷・上杉朝定、山内・上杉憲政古河公方・足利晴氏らが連合して、北条綱成が守備する河越城を包囲した際の「河越夜戦」にて、多目元忠の活躍は下記の通りです。

北条氏康が偽の降伏文書を各所にばらまくようにして、戦う意思が無いように見せたりしました。
また、上杉勢に酒など貢物をし、包囲軍の気がゆるむをまってから、夜襲を仕掛けるのを発案したとも言われています。
そして、多目元忠は北条氏康の本隊8000のうちの2000を任せされて、後詰として後方から戦況把握しました。
扇谷・上杉朝定が討死すると、逃げ出そうとした足利晴氏を深追いする北条氏康を見て、出過ぎた軍勢を戻そうと、引き上げの法螺貝を独断で吹かせます。
これで、北条勢は全軍が一旦引いあげました。
この動きを河越城内から見ていた北条綱成は「勝った!勝った!」と、河越城から城兵を繰り出します。
これが、引き上げた軍勢と河越城の城兵が、結果的に足利晴氏の軍勢を挟み撃ちさせることとなり、大軍を撃破する大勝利に導きました。

この独断で引き上げの法螺貝を吹いたのは本来であれば軍紀違反とも言えますが、北条氏康からは絶賛されたのです。

このような功績もある多目元忠は、北条五色備と呼ばれる部隊長でした。

赤備・北条綱高
青備・富永直勝
黄備・北条綱成
黒備・多目元忠
白備・笠原康勝

北条氏康が上杉憲政を関東から追い出すと、その居城であった武蔵・平井城に多目元忠が入り、以後、上野方面を担当しました。

その後、多目氏は箕輪城へ移り、藤田氏邦と共に上野・信濃方面にて戦っています。

なお、多目元忠(多目周防守元忠)は、1590年の豊臣秀吉小田原攻めの際に討死したとされています。
討死した場所は松井田城の支城である上野・西牧城(幽崖城)で依田康国が攻撃しました。
藤沢城主・大谷嘉俊(大谷帯刀左衛門嘉俊)も一緒に討死しています。

ただし、この時、討死したのは、多目長貞(多目周防守長貞)と言う武将だと考えられます。
多目長貞(ため-ながさだ)小田原城に落延びようとするも自刃したとされています。

それらを考慮すると、河越城で貢献した、多目元忠(多目周防守元忠)は1590年の段階ではすでに死去していたと考えるのが妥当でしょう。

このように多米氏(多目氏)に関しては、史料も乏しくよく分からない事が多々あります。
多目元忠が河越城で活躍した話も、のちの軍記物による記載ですので、もしかしたら、創作と言う可能性もありますが、北条五色備の「黒備え」を任されていたのは可能性が高いです。

ちなみに、青木城跡と推定される横浜市の本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館となっていました。
幕末の1862年に「生麦事件」が起きて、薩摩藩士がイギリス人を斬ると、負傷したイギリス商人が駆け込んだ場所でもあります。

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