浅利信種墓所と与一地蔵【山梨県大月市】





山梨県大月市に浅利信種墓所と与一地蔵があります。

「与一」と言うと、弓の名手で知られる那須与一と言う武将が有名ですが、実は、那須与一は軍記物に登場する架空の人物と考えられ、鎌倉武士に那須を称する与一と言う御家人はおりません。

ここ、大月の浅利郷にある与一地蔵として考えますと、鎌倉武士の浅利与一が思い当たる訳です。



浅利与一は浅利義遠(あさり-よしとお)の通称です。
この浅利義遠(浅利与一)も弓の名手として知られ、、壇ノ浦の戦いと、奥州合戦でも強弓にて活躍し、兄の武田信義、安田義定らと手柄を立てました。
兄が武田信義と言う事は、お気づきのとおり浅利氏は甲斐源氏の武田一門です。
浅利義遠の位牌や墓所は大福寺(山梨県中央市)と法久寺にあり、豊富シルクの里公園には浅利与一の銅像もあります。

あと、余談として記載しておきますと、浅利義遠(浅利与一)は、鎌倉幕府2代将軍に・源頼家に頼み込み、板額御前(はんがく-ごぜん)を妻に迎えています。
この板額御前は、巴御前とともに女傑の代名詞「巴板額」(ともえ-はんがく)と呼ばれる女性武将で、のちに浄瑠璃や歌舞伎でも題材となっています。
また、与一と称する弓の名手としては、佐奈田与一(佐奈田義忠、真田義忠、岡崎義忠)がおり、浅利与一と合わせって、架空の武将「那須与一」が生まれたものと推測致します。

与一地蔵

与一地蔵は鎌倉から与一の菩提を弔う為に積石式石地蔵が送られてきたとされますが、現在ある与一地蔵は、江戸時代に土砂崩れで失われたものを、明治に入ってから再建したものだそうです。

与一地蔵

特に案内標識なども無いので、かなりマイナーな史跡ですが、大月市賑岡町の浅利地区に与一地蔵があります。
浅利与一義成が亡くなった場所とも、浅利式部の住まいだったとも伝わります。

浅利信種墓所

与一地蔵と同じ敷地内は、浅利信種墓所にもなっており、1972年(昭和47年)石碑が建立されました。
墓史では、浅利氏に縁がある浅利地区であるため、浅利信種墓所とされる「浅利明神」の神奈川県愛川町からの申し出があり、浅利信種の分骨がされたとあります。

浅利信種墓所

浅利式部の住居があったと言う伝承ですが、単純に考えますと、戦国の武田信玄の重臣・浅利信種(浅利右馬助信種)が、浅利式部や浅利式部少輔、浅利式部丞と称していますので、ここ大月の浅利は、浅利信種にも関係があったと言う事なのでしょうか?

しかし、前述致しましたとおり、浅利信種の本拠地は八代郡浅利郷だとされていますので、なぜ、大月にも浅利郷があるのか?、残念ながら答えを見つける事はできません。
ただし、ここも「浅利」の地名ですので、浅利氏となにか関係があった可能性があるとは思いますが、それが何なのかは不明です。
もし、ご存知の方がおられましたら、是非、コメント欄からでも情報提供賜りますと幸いです。

浅利信種墓所と与一地蔵の場所ですが、途中に案内標識など一切ありませんので、非常にわかりにくかったです。

大月市浅利

目安としては中央高速の高架橋の下となります。
下記の地図ポイント地点となりますので、地図を良く見てお出かけ願います。
地図は縮尺を変えてご覧ください。
ポイント地点の場所が高速の上になっているように見えますが、実際には高速の下にあります。
駐車場はありませんが、駐車禁止ではない道路ですので、短時間の駐車問題ないと思います。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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