織田頼長とは
戦国三英傑の一人である織田信長が派手好きだったことはご存知かと思います。
そして、織田家には信長同様に派手好きだった人物がいました。
その人物は信長の甥、織田頼長(おだ-よりなが)です。
今回はかぶき手の第一と評される頼長の生涯をご紹介します。
豊臣秀頼の家臣になる
頼長は叔父である織田信長が本能寺の変で果てた天正10年(1582)に誕生します。
父は織田長益で母は平手政秀の娘の雲仙院です。
雲仙院が正室だったこともあり、頼長は次男であるにも関わらず、嫡男として扱われることになりました。
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頼長の兄には織田長孝がいるのですが、正室の子ではないため庶長子の扱いとなっています。
頼長は元服後、長益と共に豊臣秀頼に仕え「頼」の字を貰っています。
頼長の頼は秀頼からの偏諱ということになります。
かぶき者として
さらに頼長は叔父の影響を受け継いだのかかぶき者だったと知られています。
織田頼長が元服後の時代は戦が終息し始め、泰平の時代へと移り変わろうとしている時。
叔父のように戦働きをしたかった鬱憤が頼長をかぶき者として目覚めさせたのかもしれません
それに付随して乱行も行いました。
その内容は天正12年(1607)6月、稲葉通重と津田高勝、天野雄光と京都の祇園で裕福な商人の元にいる女性7、8人を無理やり茶店に引き入れて飲酒を強要したことと、その商人の従者を木に縛りつけ刀を抜いて「切り捨てる」と脅したといったことでした。
この一件で、もちろん頼長は幕府から咎められています。
しかし、加担した他の3人はお咎めだけではなく、それよりも重い処罰である改易処分となってしまいました。
ここまで重い処罰が下る乱行を行ってもお咎めだけで済んだのは、織田の血筋のおかげだと言わざるを得ません。
また秀頼も織田の血筋の影響力を思い知ったのか、翌年の1月には幕府への正月の挨拶に長頼を江戸に向かわせています。
大坂の陣では総大将になる願望が叶わず
やがて豊臣家と江戸幕府の関係に軋轢が起き、それが発端で慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、頼長は豊臣家の武将として合戦に加わります。
合戦時は父の長益と共に大阪城の二の丸を防衛していました。
また長頼は1万人規模の兵を指揮していましたが、人数が多いと何かと問題が生じるもので、同年12月に喧騒騒ぎが起こってしまいます。
その隙を見たと言わんばかりに幕府方の藤堂高虎が頼長隊の方面に攻撃を開始しました。
頼長は高虎隊を追い返すべく兵の指揮をするかと思いきや、病気を理由に一切の指揮をとりませんでした。
この頼長の意味がありげな行動に関して、一説では頼長と高虎が前もって口裏を合わせた上での謀略ではないかとされています。
結局これといった功績を上げなかった頼長でしたが、元和元年(1615)に大坂夏の陣が始まる前に自らを豊臣軍の総大将にすることを豊臣方の面々に頼みました。
しかし、冬の陣で何もしてなかったに等しい頼長に総大将を任せることはありませんでした。
その判断に満足できなかった織田頼長は同年4月に大坂城を後にします。
かぶき者から茶の湯の道へ
その後は長益と共に京都へ遁世し、茶の湯の道に生きます。
道八に名を変え、父が興した有楽流を継承しました。
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しかし頼長は豊臣方の武将の状態で大坂城を退去したので、幕府から領地を与えられることなく元和6年(1620)に39歳で病死しました。
寄稿(拾丸)
・織田信正 歴史の裏にいた信長の庶兄子
・その他「捨丸」先生の寄稿記事リスト
・織田有楽斎 (織田長益)の解説
・稲葉通重の解説~美濃・清水城として関ヶ原の戦いを乗り越えるも筑波に流罪となった戦国大名
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