吉田東洋に繋がる長宗我部家の重臣「吉田氏」は優秀な一族であった

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土佐・吉田家

幕末の土佐藩・重臣である吉田東洋(よしだ-とうよう)に繋がる、戦国時代の吉田家を調べてみますと、戦国時代から優秀な一族であったことがわかりました。

吉田東洋じたいは、土佐藩の上士・吉田正清(馬廻格・200石)の四男として1816年に生まれています。
庶兄が早世したため嗣子となり、山内容堂に抜擢されると、土佐藩の参政として藩政改革を主導しました。
しかし、土佐勤王党の武市半平太と対立し、1857年に暗殺されるのです。

でも、もともと「上士」でしたので、山内家の譜代家臣かと思いましたが、調べてみると違うようでしたので、戦国時代の土佐・吉田家について明記したいと存じます。


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吉田家の先祖はもともと長宗我部家の重臣で、土佐国長岡郡江村郷の吉田城が本貫です。
江村郷は、岡豊城の南側で、目と鼻の先と言えます。
関ケ原の戦いにて長宗我部盛親が改易されたあと、浦戸一揆などの反乱には加わらず、山内家に仕え「馬廻り」となった模様です。

戦国時代に四国を統一した長宗我部元親の家臣としては、吉田孝頼、吉田貞重、吉田重俊、吉田重康、吉田政重と言う名が見受けられますが、いずれも重臣で有能な人物が多いです。

吉田孝頼

吉田孝頼(よしだ たかより)(1494年-1563年)の土佐・吉田氏は、もともと藤原秀郷流を称した山内首藤氏の一族です。
首藤俊宗が足利尊氏に従って戦功を挙げると、土佐に領地をもらい土着します。

戦国時代の吉田孝頼(吉田備中守孝頼)は、1518年に、長宗我部国親が土佐・岡豊城に復帰した際に、長曽我部国親の妹を妻に迎えました。
そして、長宗我部氏従うと、吉田孝頼(吉田周孝)は優れた知略を発揮し、1561年には井口城主となっています。
長宗我部氏の軍制のひとつ「一領具足」を考案したのも吉田孝頼ともされています。

晩年も長宗我部家の宿老として活躍しますが、永禄6年(1563年)に病死し、あとを吉田貞重が継ぎました。

吉田貞重

吉田貞重(よしだ-さだしげ)は、1569年、安芸城主・安芸国虎を攻めた際に、槍で目を突かれて重傷を負いますが、その敵を突き伏せて首を取ったと言う武勇があります。
このように、長曽我部元親の四国制覇に大きく貢献しました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと、主家再興を願った一領具足ら長宗我部遺臣が、浦戸城に籠る浦戸一揆が発生すると、吉田貞重は一揆勢を説得しています。
これは、家督を継いでいた長宗我部盛親が兄・津野親忠を殺害したことへの不信感があったともいわれていますが、のち高遠藩主・保科正光に250石にて仕えました。

ただし、吉田貞重の子・吉田重親(よしだ-しげちか、吉田内匠頭重親)は、大阪城に入った長宗我部盛親に協力し、大坂夏の陣の八尾・若江の戦いにて、増田盛次らと共に先鋒として出撃し討死しています。

吉田重俊

吉田重俊(よしだ-しげとし)(1498年?~1570年?)は、先にご紹介した吉田孝頼の弟です。
兄と同様に智勇に優れ、土佐・大津城の戦いでは長宗我部勢の先鋒として活躍しました。
1558年に、上夜須城主となり、永禄12年(1569年)に安芸国虎を攻めた際には、嫡男・吉田重康(よしだ-しげやす)や、吉田孝俊と共に奇計を用いて安芸勢を敗走させています。

吉田重俊の次男・江村親家(えむら-ちかいえ)は、江村親政の養子となって、父と同じ「備後守」を称したため、区別のため父・吉田重俊を「大備後」、この江村備後守親家を「小備後」と呼びます。
江村親家も長曽我部勢の主力として吉田一族と共によく戦い、一条兼定からも賞されています。
子の江村親俊は、1582年に阿波一宮城の守備を任されています。

吉田重俊(吉田備後守重俊)は、1570年頃に亡くなったようで、跡を継いだ吉田重康の詳細はよくわかりません。

吉田重康の子と考えられる吉田孝俊は天正10年(1582年)の中富川の戦いにて討死し、孫・吉田康俊は長宗我部氏改易のあとには、姫路城の松平家に仕官したようです。

吉田政重

吉田重康の次男と考えられる吉田俊政の子に、1568年生まれの吉田政重(よしだ-まさしげ)がいます。
吉田政重は背が高く、武勇に優れた武将だったようで、1582年、中富川の戦いにて初陣を飾ったあと、数々の武功を挙げました。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでで浪人すると、大坂の陣では、長宗我部盛親に従って大坂城に入城しています。
大阪城が落城したあとは、土佐に戻ったようで、土佐藩からの三顧の礼も断り、弟・吉田正義を藩士に取り立ててもらい、自身は医者になったとあります。
生涯で挙げた首は115個であったとされ、自分の首より上にあった傷は21ヶ所もあったと言う猛将です。

その土佐藩・上士となった吉田正義(吉田市左衛門)の嫡流の子孫にあたるのが、幕末の参政・吉田東洋と言う事になります。

ちなみに、土佐・吉田氏の先祖である首藤俊宗の弟・首藤俊氏は、のち山内氏を名乗り、尾張に住みます。
この山内氏が、土佐藩主として高知城を築城した山内一豊の先祖でもあるのです。

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