薩摩藩による奄美大島侵攻と本仮屋(代官所)跡~赤木名城も

関ヶ原の戦いのあと、薩摩を安堵された島津家は、1609年3月から、奄美・琉球に対して軍事行動を開始しました。
琉球征伐(りゅうきゅうせいばつ)とも呼ばれる侵攻ですが、すでに江戸幕府が成立している江戸時代の初期ですので、薩摩藩としては徳川家康に許可を得たうえで出陣しています。
薩摩藩兵としては総勢3000人、船の数は約80艘であったと言いますが、1609年2月26日に山川港に集結しました。
そして、島津家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に、山川港から出港したと言います。


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総大将は樺山久高、副将は平田増宗で、3月4日亥刻には口永良部島に到着しました。後陣は肝付兼篤です。
鉄砲734挺、弾丸・火薬37200発(一挺につき300発)、弓117張と、火力重視の攻勢です。
そして、3月6日辰刻に出港すると、トカラ列島を経て3月7日申刻には奄美大島に到着したと言います。
ただし、船団は強風で3手に別れて奄美大島に到着したとされています。

奄美大島

当時の奄美大島は、琉球王国(中山)・尚寧王に従っていましたが、奄美の支配者は見限って、薩摩藩に全面的に協力したようです。

大島では戦闘なかったともされてますが、実際に、薩摩軍は3月7日申刻に「深江ヶ浦」「西間切」「津代湊」に到着し、3月8日には周辺を打廻ったといます。

上記の深江ヶ浦、西間切と言う地名は現在に伝わっておらず、正確な場所は分かっていないようです。
津代湊(つしろみなと)に関しては、笠利湾に面する奄美市笠利町手花部津代であろうと言うとで、樺山久高の5艘150名が到着したとあります。

津代湊

その笠利・津代においては戦闘が行われたともされており「津代の戦跡」(津代古戦場跡)と呼ばれています。

戦闘があった説による、笠利の大親・真牛(もうし)が抵抗したそうですが、武器の備えもなく降伏して捕虜になったとあります。

津代古戦場跡

戦跡とは言え、高く茂った草むらと、干拓され整備されつつある海があるだけで、正直、現在は何もありません。

津代古戦場跡

そして、笠利に人衆が集まっているとの報告もあったようですが、彼らは逃げて山林に隠れたようで、代表を呼び出すと、安心するようにと申し聞かせたとあります。

薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在し、3月12日に出港すると、大和浜を経由して3月16日には西古見に到着しました。

喜界島の西目間切・大親も、奄美大島の話を聞いて、樺山久高に会いにくると降伏を申し出ています。
この「大親」と言うのは、琉球国統治時代の間切における最上級役職です。
間切(まぎり)と言うのは、今の日本で言うと「村」と言う行政区分の意味になります。
すなわち、間切・大親と言うのは、村長であると言えるでしょう。

3月19日には、30隻の薩摩軍が宇検村焼内湾(やけうちわん)に着いた際に、現地の島民が夜襲を行ったため、薩摩軍は上陸し防御柵を設けていた村を全て焼き払ったともされています。
他にも焼内間切、東間切、嘉鉄村でも戦闘があったともされますが、薩摩藩は奄美大島をほぼ大きな抵抗を受けずに制圧し、順風を待って、3月20日卯刻に出船すると徳之島へと向かっています。

琉球王国(中山)は、3月10日に薩摩軍が大島に到着したとの報告を受け、長老の天龍寺以文を派遣しましたが、この長老派どこかに隠れていまって薩摩藩と交渉しなかったともあります。

最終的に鉄砲の圧倒的な威力により、4月5日には首里城も制圧し、尚寧王が降伏すると薩摩藩が奄美・琉球を支配下に置きました。

なお、薩摩藩は、琉球を制圧しても領地とはしていません。
これは、当時の「明」が、江戸幕府や薩摩藩との交易を嫌がっていたためで、琉球王国は服属国とするも「独立国」と存続させ、中国との交易の中継点とすることで、貿易しようと考えたためです。


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尚寧王は薩摩藩によって強制的に日本に連れて行かれました。
随行した琉球王国の者も100名ほどいたようですが、鹿児島から駿府城江戸城へ赴き、徳川家康と徳川秀忠に臣従を誓い、進物を献上しています。
そして、尚寧王は1611年8月まで鹿児島にて軟禁されました。

なお、薩摩藩は1610年に奄美大島を管轄する大島代官を派遣し、1613年には大島奉行所を設置しています。
そして、1616年には徳之島・沖永良部島・与論島を統治する徳之島奉行が設置され、奄美諸島は薩摩藩に併合されました。

奄美大島においては、1613年に法元仁右衛門が大島奉行として笠利に入って仮屋を置きました。
この「仮屋」と言うのは簡単に説明すると代官所と言う事になります。

下記が笠利の本仮屋跡(大島代官所跡)となります。

笠利本仮屋跡(大島代官所跡)

代官(奉行)の役宅が本仮屋で、横目付役(警察)の役宅は仮屋と呼ばれたようです。
約22年間、笠利にて大島統治を行いましたが、その後、名瀬・大熊に本仮屋を移しています。

その後は、笠利間切・赤木名に本仮屋跡(大島代官所跡)に移転していすま。

赤木名本仮屋跡(大島代官所跡)

石垣はサンゴを用いた独特な塀となっています。

赤木名代官所跡

その後、本仮屋は大熊・赤木名・名瀬と何度も移るのを繰り返して、鹿児島から370km離れた奄美大島を統治しました。

薩摩藩はサトウキビの栽培を奨励し、黒糖貿易で利益を上げたと言います。
そして、黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生しています。

なお、鹿児島からも遠く離れた奄美大島など、は薩摩藩の流刑地ともなり、幕末にお由羅騒動に連座して流刑となった名越左源太は「南島雑話」を著しています。
また、西郷隆盛も流人生活を送り、奄美の女性・愛加那と子供を設けました。

赤木名城

なお、薩摩藩が代官所も置いた赤木名には、赤木名城と言う山城があり、国史跡に指定されています。
最初に築城されたのは西暦1100年頃で、奄美大島を代表する大規模なグスク(城)です。

赤木名城

年間を通して枯れることがない湧水も山麓にあるそうですが、ここに城があったと分かったのも1999年頃と、最近のことです。
赤木名城跡(赤木名グスク)の本丸は標高100.8mですので、結構な登坂となるようですが、今回、駐車場が見つかりませんでした。
駐車禁止でない道路に止めて向かっても良かったのですが、何かあった際に、消防自動車の走行を妨げてしまうような狭い道しかなかったので、訪問はあきらめました。
しかし、赤木名城には3つの「堀切」や「郭」などあり、日本の中世山城とほとんど同じ構造だそうです。
すなわち、堀切など見られない沖縄諸島にあるような大型城塞グスクとは、異なる形態の大型城郭と言う事なので、琉球王朝の手が伸びていた地域ととしては、異色な城跡と言えるでしょう。

喜瀬の浦城跡、浦上城跡(有盛神社)にも同様に「堀切」が見られるそうです。

赤木名城は1600年頃まで使われていたようですので、最終的には戦国時代の頃、すなわち江戸初期の薩摩藩侵攻が行われた際に、改修された可能性もあります。
しかし、誰が城主だったのかなどは、文献が残っておらず不明です。

このページでご紹介した史跡などの場所は下記のオリジナル地図からご確認願います。

オリジナルGoogleマップ(奄美大島の欄をご確認願います)
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