後水尾天皇~徳川幕府との熾烈な闘争に勝ち抜く~


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戦国時代は、大阪の陣によって終わりを遂げ、念願だった泰平の時代を迎えた。
思えば、徳川家康はあらゆる手段を総動員して秀頼や淀君、豊臣恩顧たちに圧迫を加え続け、ついには豊臣宗家を滅ぼすに至った。

しかし、執拗なまでの強硬姿勢は豊臣家だけに向けられたものではない。
第108代水尾天皇(ごみずのおてんのう)。
江戸幕府の苛烈なまでの圧迫政策の矢面に立たされた苦悩の天皇である。
徳川家の度重なる壟断に激しく抵抗し、辛酸をなめ続けるも、皇室の権威を土壇場で守り抜いたその生涯とは―。

◆徳川和子の入内

後水尾天皇の即位は、慶長16年3月27日。大坂の陣が起きる四年前である。
先代の父・後陽成天皇は第1皇子である良仁親王に皇位を継がせる意志を持っていたが、皇位継承をも幕府の意のままにしたい家康の思惑もあり、良仁親王を出家させ、第3皇子の政仁親王(後水尾天皇)が皇太子として擁立された。
関ケ原の役で勝利を治め、着々と政権基盤を固めつつある中で、朝廷に対する政治工作も周到に進めていたのである。

家康はさらに、後継者である徳川秀忠の娘・和子(東福門院)を入内させるべく、朝廷と交渉を進めていく。腹心である伊勢藩主の藤堂高虎を使者として京都に派遣し、宮廷の女官や官僚たちの懐柔を図る。
徳川家康は、徳川家を皇室の外戚として位置づけ、朝廷内でも思いのまま権勢を振るう「摂関政治」と試みようとしていたらしい。

藤堂高虎の根回し工作が実り、ついに後水尾天皇の勅許を得て和子の入内が叶う。将軍秀忠が入洛、伏見城に入り、天皇と拝謁。円満に輿入れが進むと思われたが、ここで二つの障害が立ちはだかる。
一つは、武家伝奏・広橋兼勝が内大臣に昇進したこと。二つ目は、後水尾天皇に皇女が存在していたことだ。

慶長20年には、朝廷のあらゆる権限を拘束した『禁中並公家諸法度』が制定、公布されている。
この法律で、「朝廷は何事も人事を決めるときは幕府に相談しなければならない」と決まっており、兼勝の内大臣昇進は明白な法規違反である。また、天皇が密かに皇女を宮中で養育していた事実は、徳川家とのご婚儀を迎えるにあたり、はなはだ不謹慎であると非難。
幕府側は宮中側近や官僚の責任を追及し、罷免を求めた。朝廷側は幕府の言い分通りに関係者を罷免、島流しの刑に処し、広橋兼勝の官位もはく奪する。

秀忠の思わぬ剣幕に公家や官僚たちは、恐れ、かしこまるしかなかった。しかし、天皇家からすれば徳川将軍は一家臣に過ぎない。その家臣に激しく行状を攻められた後水尾天皇の胸中は、決して穏やかでなかったはずだ。

朝廷側が速やかに処分を下したことで秀忠は機嫌を取り戻し、意気揚々と二条城をあとにして江戸に帰還した。和子の輿入れが済むも、暗雲の朝幕関係を予感させる出来事であった。

◆幕府の恐るべき非人道政策

和子入内が決まった後も、幕府の朝廷侮蔑、圧迫工作はやむところを知らなかった。

元和6年5月29日、和子を乗せた御車が護衛の幕臣衆たちに付き添われて宮中に入って来た。通りゆく御車に、女官たちが近づいて来る。当時の慣例として、輿入れの御車の物見を開いて女官たちがそのお顔を拝顔するというしきたりがあった。
しかし、護衛の任に就いていた藤堂高虎が勢いいさんで駆け寄り、「女御様に無礼を働くとは何事だ!それ以上近づけば狼藉者とみなしこの場で切って捨てるぞ!」と刀に手をかけ恫喝。女官たちは恐ろしさのあまり立ちすくみ、声も出なかったという。

和子入内後は、「女御様御付」という宮中職を設け、秀忠側近の弓削多昌吉を就任させると、幕府管轄で和子女御の御殿を統括。さらに天野豊前守、大橋越後守が御付となり、それぞれ与力十騎、同心五十人を擁して警察権限を強化した。
宮中内にはさしずめ治外法権ともいえる徳川家の警察区域が設定されたのである。天皇は、幕府が禁裏を土足で踏み荒らす様を切歯扼腕しながら見るしかなかった。

しかし、そんな幕府の専横や過剰介入はまだ生易しいものだった。幕府の残忍この上ない非人道的政策により、後水尾天皇は、皇室の歴史上、稀にみる艱難辛苦を背負うことになる。

『細川家記』(細川忠興の子・忠利に興したる書)には、こんな記述が残されている。「かくし台には、御局衆のはらに、宮様達いか程申し候を、おしころし、又は流し申し候事、殊の外むごくご無念に思召し候…武家の御孫より外は、御位には付けず…」

つまり、和子以外が産んだ天皇の子息子女、つまり皇子皇女たちは、強引に堕胎させられ、徳川の血を引いた者しか生誕が許されなかったということだ。
『本朝皇胤趙紹連録』によると、後水尾天皇には三十二人の皇男皇女がいたが、寛永5年の頃までに生まれたのは、いずれも和子の子供たちであったという。
和子と結婚した元和6年で、寛永3年に皇子・高仁親王が生まれている。寛永5年までの7年間は和子以外の女房に子どもが生まれず、それ以降は光子内親王や後光明天皇、後西院天皇、長仁親王など、15人以上の降誕に恵まれている。
徳川家の血を引いた皇家の継承者が生まれるまで、残忍な手法を用いて天皇の皇胤を排除したー。徳川秀忠の信任も厚かった細川忠興の証言だけに、あながち流言とも言い切れないだろう。

◆同時代の手紙から見えてくる天皇の憤懣

家康はもともと、天皇や朝廷に対しては、従順な姿勢を示し、あくまでその権威を後ろ盾に幕府政治の安定を試みようとした。

後水尾天皇が即位した慶長16年3月には、皇居造営の計画を立て、速やかに実行するよう京都所司代の板倉勝重に命じている。普請工事は諸大名がそれぞれ分担して行うことになったが、大阪城の豊臣秀頼もそれに加わり、課役についたという記録が残っている。

しかし、家康の死後、穏やかな向きもあった幕府の姿勢は一変する。家康の後を継いだ秀忠は、苛烈なまでに皇家に対して侮蔑と圧迫を加える政策をとった。

元和9年10月に天皇と和子の間に皇女が誕生。それに先駆け、秀忠・家光父子が入京し、天皇に大内御料として洛外の田舎1万石の領地を進呈した。天皇に対して1万石である。
この処遇はいわば天皇を格下の小大名扱いしているわけで、侮辱以外の何物でもなかろう。ちなみに、父の後陽成上皇の御料は三千石。貧乏旗本にも及ばないような侘しい収入である。

実際に、この時代の天皇家や公家たちの生活は窮乏を極めた。幕府は兵糧攻めすることで、京都の政治勢力が肥大化して徳川家の脅威とならないよう、有名無実化することを狙ったのである。

「幕府から朝廷へ、御料が増加されても、雀の涙ほどしかない。ましてこれらの金や米は、所司代から民衆へ貸し付けられている。
農民たちが、“私は天子様から米をいくら借りている”と言いふらすのを耳にし、天皇が有史以来前例のないことだとお嘆きになられている」

これは、『細川家記』の中にある、同時代の人が送った手紙の一文である。天皇の憤懣やるかたない心情が痛ましいほどに伝わってくる。

◆紫衣事件で、ついに譲位へ

幕府の執拗なまでの圧迫の前に、隠忍を続けてきた後水尾天皇であったが、ついに堪忍袋の緒が切れる大事件が発生する。有名な“紫衣事件”である。

「黒衣宰相」とよばれた金地院・崇伝が京都に上洛した際、公家諸法度に抵触する事案があることに気付き、京都所司代・板倉重宗と協議を重ねた。その結果、「法度に違背した僧侶昇進の勅許がある」と結論付けた。

公家法度では、「諸寺の僧侶の紫衣に関する勅許は、幕府に相談することを義務付ける」という条目があった。
この紫衣勅許は、朝廷の貴重な収入源でもあったため、法度が公布されてからも天皇が幕府に無断で大徳寺や妙心寺の僧侶に紫衣の着用を許す勅許を出していた。

この報告を受けた幕府はすぐに所司代の板倉重宗に命じ、勅許無効を申し渡すよう命じた。

重宗はすぐに幕府と朝廷の仲介機関である武家伝奏を訪ね、幕府の命令を伝えた。これを聞いた天皇は激怒し、「汗のごとき綸言を保護にするとは、古来に例のない凌辱である。もはや一日も天位にいることは出来ない」と譲位の意向を示唆した。

後水尾天皇が退位となると、後継は和子の子・秀忠の孫である高仁親王である。秀忠はしてやったりとばかりにほくそ笑み、天皇が退位した後の住居となる仙洞御所の造営に着手した。

しかし、寛永5年の6月11日、高仁親王が夭折する。わずか二歳であった。天皇の和子の間には皇女二人しかいない。
とりあえず幕府は譲位の儀の中止を決定。しかし、天皇は一度退位の意向を示したことでもあり、「こうなっては女一宮に皇位を譲る」といって聞かなかった。女一宮は和子との間に生まれた皇女である。

天皇の逆鱗に触れる事案はこれで終わりではない。先に発生した紫衣事件で紫衣と上位号を取り上げられた大徳寺の宗伯、沢庵、妙心寺の桃源らは幕府の処置に異議を唱え、激烈に批判する内容の上書を行った。
幕府は激怒して三人とも配流処分にし、以下七十人の出世綸旨を無効にした。この処置に、天皇の憤懣はさらに大きなものとなり、退位の姿勢も硬直化したのである。

幕府としても、真向から天皇と事を構えるのは良策ではない。そう判断し、家光の乳母である春日局を上洛させ、天皇に拝謁を願い出た。
春日局は大奥を取り仕切る大物で、「御乳母様」と呼ばれるほどの権勢を誇っていたが、朝廷からすれば、無位無官、下賤の身の老婦人を寄こされたに過ぎない。
「朝威が汚された」と、天皇の怒りの火に油を注ぐ結果となり、寛永6年11月8日、天皇は退位を宣言、中宮御所にお移りになり、女一宮を皇位に就かせた。明正天皇である。

幕府に何の断りもいれず、勝手に退位して勝手に後継者を決めたものだから、当然江戸の武家政権がいきり立ってもおかしくない。
事実、秀忠は天皇の電撃譲位に怒り心頭となり、上皇(後水尾天皇)を隠岐に流そうとした。これを息子の家光が諫言して止め、事なきを得たという。後水尾天皇の力技に、最後は秀忠がねじ伏せられた格好である。

以下は、天皇が譲位にあたって詠んだ御製二首である。

葦原や茂らば茂れ天の下 とても道ある世にあらばこそ
世の中は上に目がつき横に行く 蘆間(あしま)の蟹の浅ましの世や

遁世というより、一種のやり切れなさや自暴自棄の心が伝わってくる。

徳川家光と、上皇時代

徳川秀忠という人はよく、その人格を秋の月に例えられた。どこか寂し気で、陰性の雰囲気が漂う。大御所家康という巨大な存在に怯え、飲み込まれまいと虚勢を張る態度が、弱者に等しい朝廷に対する冷淡で傲慢な姿勢につながったのだろう。

それとは対照的に、家光は春の陽光を受けて輝く花に例えられた。幼少の頃こそ父母に愛されず、虚弱体質で日陰者的存在であったが、本質的にはぎやかで爛漫な性格であった。
正月早々、二の丸で伊達政宗と思い思いの衣装を着飾り、踊りの競演を見せるエピソードなどは、いかに彼が陽気な性格だったかを物語っている。

その両者の違いは朝廷に対するスタンスにも現れ、秀忠死後、実権を握った家光は温和な姿勢で朝廷と向き合い、仙洞御所に移った上皇とも良好な関係を築いていく。

寛永11年7月、家光は三度目の上洛で上皇に拝謁。その際、太刀、目録、銀五百枚、錦五百把を納めた他、内裏や近侍の女房、公家たちにも金銀や豪華な物品を贈った。
さらに二条城の二の丸で親王、摂家、門跡、公家衆らを饗応し、猿楽を催して楽しませたという。上皇の御料は家光の代で七千石加増となり、二万石の所領を得ている。わずかではあるが、家光の朝廷、皇家に対する好意の表れとみていいのではないか。

◆皇室を徳川家から守った?

後水尾上皇は明正天皇が退いてからも法皇となって院政をしき、実質朝廷内で最高の実力を保ち続けた。天皇時代、幕府に真っ向から逆らい、電撃譲位した結果、皇女である明正天皇が皇位についた。
女帝の即位は孝謙天皇以来、久しくなかったことであるが、この一例が天皇家の血統を守ることにつながったという見方もある。

天子の皇胤は、男系男子に限定されることから、女性天皇が皇位に就いても結婚できないという不文律があった。そのため、明正天皇は成人後も結婚することなく、独身のまま退位した。
これにより、徳川家のDNAは皇室に継承されることなく、一代限りで途絶えることになった。
もし幕府との喧嘩に根負けして「徳川皇子」を継承させていたら、幕府の朝廷支配は加速強化し、皇室の権威は地に堕ちたことだろう。そうなれば、幕末の尊王運動も、今のような皇室のかたちも、違うものになったかもしれない。

延宝8年(1680年)、後水尾天皇崩御。85歳の長寿であった。神代を除き、最長寿の記録は昭和天皇に破られるまで続いた。

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