実際の山本勘助~どのような人物だったのか?


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実際の山本勘助

 武田家は滅んだ大名のため、武田家に関する資料は多く残されていない。
 武田氏の戦略・戦術を記した軍学書として「甲陽軍鑑」が有名だが、正確な著者は不明。武田信玄・勝頼に使えた武将・高坂昌信が書いたものを、江戸時代初頭に甲斐に一度も住んだ事のない小幡景憲らが編集したと言われている。
 山本勘助に関しても、その「甲陽軍鑑」からの記述が江戸時代からずっと我々が認識する武田家・軍師「山本勘助」となっている。
 しかしながら、この甲陽軍鑑の編集者の1人に山本勘助の息子・鉄以の名がある。自分の出世の為などに、多少なりとも父・山本勘助の功績を過剰に記載した可能性が捨てきれない。実際、甲陽軍鑑には史実と異なる不確定な要素が多く、とても武田に詳しい人物が書いたとは思えない為、歴史書としての評価は低い。

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 実際の山本勘助は、どうやら清和源氏・源満政の後裔で、駿河源氏吉野氏の子孫と考えられる。
 現在の静岡県富士宮市山本を本拠地とした為、吉野から山本に名を改めて今川家に仕えていた。
 浪人時代には山伏兵法を学ぶため高野山に参籠したとも言い、また京都の等持院で3年間修行したとの説もあるが確かなことは分らない。

 山本図書(実名不詳)の四男が山本源助貞幸と呼ばれ、牛窪城主・牧野右馬允の家臣・大林勘左衛門の養子となって「勘助」と称した模様だ。
 駿河吉野氏は武田一族筆頭の穴山信君(穴山梅雪)の父・穴山信友と親戚でもある。
 山本勘助は、武田信虎のもとで駿河との外交を担った板垣信方に仕えた忍者の頭目であったとも考えられている。
 その他は、高坂昌信の家来だった可能性や、複数の人物の話を1人の架空人物が行ったものとして創作したと言うことも捨て切れない。

 いくら武田信玄が人材取立ての名人と言えども、駿河出身の浪人を偶然見つけて、いきなり100貫と言う高給で雇うとは考えにくく、一族筆頭の穴山信君の縁者でもあり、板垣信方の紹介と言うことで、高く評価したのだと考えるが、この甲陽軍鑑の記述も裏付けるものはない。

 山本勘助が戦死した4回目の川中島の戦いの時には70歳前後と考えられる。
 当時の寿命としても70歳近くまで生存していることは珍しいことであり、仮に70歳まで生きていたとしても、もともと足が悪いなどの障害者でもある。
 そんな老兵を最前線で働かせる、または働けると言う点でも、山本勘助の存在が疑われる。
 その川中島の戦いでは、山本勘助が取った作戦に別働隊を妻女山に向かわせたとあるが、妻女山は結構険しく、降りるのはともかく、馬や兵士が短時間に山を登って、しかも闇夜の中移動するのは大変困難な地形であることもわかっている。
 本当のところは霧が濃くて、敵・味方がよくわからず、各部隊が移動している間に、偶然敵に出くわしてしまい、各所で血みどろの戦になったと考えられる。

 また、武田勢は強い強いと言われているが、職業軍人で構成した織田勢と異なり、武田勢は農民を戦の時には兵士にすると言う構成。要するに、兵士はいつも戦闘訓練を受けた戦争のプロではない。
 また、織田勢の名だたる武将は戦死することが余りないが、武田勢は様々な戦で名だたる武将が結構討死しているし、戦に勝ったと言っても、自軍にも相当な被害を出している。

 上杉謙信が武田信玄の本陣に単騎突入したと言うのも、実際には上杉勢の一武将が武田本陣を急襲したようだ。強い武田軍としては許されることではなかったので、あの強い上杉謙信自らが斬りこんできたと言う話にしてしまった模様だ。よ~く考えてみると、大将が敵本陣に単騎で斬り込むと言うのは、日本だけでなく世界の戦争を見てもあり得ない。武田の面子を保ち、武田の守りは弱かったと言う話に発展しないよう配慮したのであろう。

 それらを考えると、武田信玄は乱波(らっぱ)や商人を使い、国内だけでなく周辺諸国に「武田は強い」と触れ回らせ、強いぞと宣伝したであろう。その為、当時1度も戦った事がない相手からも強いと思われた。武田軍は武田信玄を始め優秀な武将の指導力・采配力に頼る軍であり、その素早い移動スピードや慎重な作戦立案、戦場での命令伝達力と組織力、そして宣伝力により「強い武田軍」を作り上げていた。確かに、軍の統制はとれていたのであろう。敵にもキビキビと動く武田軍は手強いと思われたはずである。しかし、統制は取れていても、個々の兵士の戦闘力・防御力はそれ程ではなかったのではと、武田信玄が大好きな小生でさえ感じてしまう。
 良い例が、武田勝頼が滅亡する直前には、農兵は田畑に帰り、直属兵も逃亡するなど、軍の統制が取れなくなっている。負けるとわかると怖くなって逃亡するのは武田軍でも同じである。

 逆に言うと、強いと思われ、また自ら強いと兵士に思わせることにより、逃亡兵を失くし、士気を高め、平凡な戦闘力を、武田信玄の采配でカバーしていたと言える。その点ではとても素晴らしい軍人と言えるが、現に、武田信玄は生涯掛かって信濃+駿府の一部しか平定できなかったのは慎重すぎたとも考えられるし、農民を含んだ兵なので慎重にやらなければ勝てなかったとも言える。
 その反面、兵士を城下に住まわせ、何かあるとすぐに出陣できる即応戦力(常備軍)を維持し、戦争しかしない家臣=職業軍人集団を考案し戦った織田信長は、武田信玄の2倍・4倍と一年中戦ができ、戦をすればまた兵の経験・能力も上がりまた強くなると言う、画期的な軍国革命を起こしたと言える。

 皆様は戦国時代、戦の本当のやり方をご存知だろうか。
 対陣すると、最初、お互いに投石をする。要するに、無料でしかも現地調達できる「石」を投げ合うのだ。
 武田家臣の小山田信茂などは投石器を使い、鉄砲よりも遠距離に石を投じたことでも有名だ。
 その後、投石だけでなく「弓」をお互い射る。
 それが終わると、槍部隊が前進し衝突する。馬に乗った武将も馬上から弓を射るか、長槍で相手を叩く。槍で相手を突くと言うのは間違ったイメージだ。槍部隊の戦い方としては、長い棒を上から振り落とし、相手を叩くと言う表現が適切だ。
 腰につけている刀はあくまでも恩賞を得る為、討ち取った敵将の首を切るのに使われた。戦国ドラマなどで見られるような、刀と刀がぶつかり合う戦い方や、敵陣に突撃して相手を切る戦い方は、明治以降に旧日本陸軍が作った白兵戦のイメージで、戦国時代はそのような戦い方はしていない。
 下記の映画は、その本当の戦い方にて描かれている貴重な映画だ。

 平和になった江戸時代には、槍や弓、鉄砲を持って歩いていると「物騒」と思われる時代になったので、武士は刀を武器として携行するようなり、剣術も江戸時代から花が開いた。
 そんな戦をしていた戦国時代に、織田信長は「鉄砲」と言う最新兵器を大量導入するなど、軍の用い方に革命を起こし、武田軍が到底勝てる相手ではなくなっていったと小生は考える。

 江戸幕府の祖である徳川家康が命からがら戦った武田信玄の人気は強く、反徳川勢に取って武田信玄は格好の英雄である。
 その為、江戸時代に書かれた甲陽軍鑑の内容がそのまま「伝説」のようになり、現在に至っているものと小生は考える。要するに江戸時代のフィクション小説がそのまま現在でも良く知る武田軍の山本勘助と言うことになっていると考えれば、なにもおかしくはない。その為、山本勘助じたい架空の人物とも言われてきた。

 昭和44年(1969年)、NHK大河ドラマ「天と地と」にて武田信玄花押の入った書状の放送を見た、北海道釧路市松浦町の市川良一氏の夫人が気づき、市川宅に伝えられていた書状を釧路図書館に鑑定依頼した。その結果、武田信玄の書状と正式に鑑定され、その「市川文書」と呼ばれる書状には漢字が若干異なるが「山本菅助」という名前が記されており、山本勘助の存在が別の資料で初めて確認された。しかし、我々がよく知るような軍師ではなく「伝令役」のような役割を果たす人物としてその名が記載されている。

 しかしながら、武田家では、国人や隣国領主との外交において、武田信玄からの信用が高く常に知略ある有力家臣を派遣していることからも、山本勘助は武田家中にて最低でも足軽大将(侍大将)の地位であったと考えられ「軍使」がいつのまにか「軍師」となってしまったのか、甲陽軍鑑の原作者が山本勘助の役割を承知の上でイメージを膨らませた可能性は十分に考えられる。
 また、山本勘助の孫が毛利家に仕えたと言う有力説があり、毛利家の信憑性の高い史料「閥閲録」では下記のように記載されている。
 山本勘介の子は山本勘助亡きあと郷士となったが、孫の代に毛利元就に仕えた。関ヶ原合戦後に毛利家が減封されると、山本家は「目くら矢」と言うくじ引きにより町屋になることが決まった。しかし、山本勘介の後裔であることから一代に限って毛利家側近に迎えられた。その後、子孫は大津郡久原村の大庄屋となり名字帯刀を許され、大組同様の扱いを受けた。これらを記した文書があったが、洪水により流出してしまった。山本勘介伝来の守刀もあったが、これも洪水で流出した。山本勘介の子孫は島原の乱に出陣した。

ヤマカンの語源

 「ヤマカンが当たった」と良く言うが、その語源の一説には山本勘助から来ていると言う説もある。
 辞書・大言海や辞海では、山本勘助の名を略したものと掲載されている。

戦国時代騎馬隊の馬

 映画やテレビに登場する騎馬武者は、大きな馬に騎乗し、颯爽と戦場を掛け巡る姿を思い浮かべるが、これは撮影に使われる馬が、明治以降、外国から輸入されてきた、私たちが良く知る馬の品種(サラブレットなどの乗るのに適している外国品種)を使用し、乗馬場面のほとんどは、イギリス又はアメリカ西部の馬術を用いた乗り方であり、実際、戦国時代に武士が使用していた馬や戦い方とは全く違うことを忘れてはいけない。
 発見されている記録や馬の骨から推測すると、戦国時代に使用している日本馬は、背中までの地上高が120cm~150cm程度、体重が250~350kg。私たちが良く知る馬(サラブレット)は地上高160cm以上、体重500kgなので、昔から日本にいた馬は小さかったのがわかる。
 いずれにせよ、平和な江戸時代に入ると馬の重要性は低くなり、また幕府は民間人が馬に乗ることを禁じた為、大和朝廷の時代から推奨されてきた日本馬の飼育も日本独特の馬術も衰退した。
 そんな中、日本古来の馬と言われている御崎馬(岬馬)が宮崎・日南の都井岬に現存する。
 江戸時代の1700年頃、 高鍋藩の秋月家が軍馬育成の為放牧したのが始まりとされるが、その御崎馬(岬馬)は背が低く、胴が短い。平均すると地上高130cm。体重300kg。国の天然記念物に指定されている。

 

補足

 2007年8月に武田晴信(武田信玄)が書いた古文書が発表された。
 出陣の下知状として1556年に、武田が長谷の名家・黒河内八郎右衛門にあてたものであり、神野峯城(飯田市)を攻めるため、山本勘助を大将に、浪人を集めて戦う用意をしろという内容である。山本勘助の案内役も務めるように添えられ、文面から山本勘助の名がはっきり読み取ることができる。赤い判が押されていることから、朱印状とも呼ばれている。
 これにより、山本勘助は軍師ではないが、実在した足軽大将又は軍使として存在していたことが分りつつある。
 この書状は伊那市の長谷公民館内収蔵庫に保管されているらしい。

 →山本勘助についてはこちら

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  1. 2015年 9月 02日

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