名胡桃城主の鈴木重則(鈴木主水)と鈴木忠重とは


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鈴木重則(すずき-しげのり、鈴木主水重則)は、1547年生まれた。

1578年、真田昌幸武田勝頼の家臣として沼田領へ侵攻した際に、名胡桃館主・鈴木重則は臣従した。
その後、真田勢によって名胡桃城に改修されるも、沼田城の有力な支城として、鈴木重則が守備を任された。

名胡桃城や沼田城は、北条家によって度々攻撃を受けるが、沼田城主・矢沢頼綱らといずれも撃退した。

1589年、真田昌幸と北条氏直の領土争いを、豊臣秀吉が仲裁し、沼田城は北条家のもとなったが、名胡桃城は引き続き真田家の支配下と定められて、鈴木重則が治めた。

しかし、北条氏邦の重臣である沼田城主・猪俣邦憲が、鈴木重則の家臣・中山実光(中山九兵衛実光)を買収すると、1589年10月23日、真田昌幸が書いたとする呼び出しの偽手紙を渡された為、鈴木重則は急ぎ上田城へと向かった。
その隙に、中山実光が名胡桃城を乗っ取ると言う名胡桃城奪取事件が起こる。

鈴木重則は途中で岩櫃城に寄ると、この頃岩櫃城主だった矢沢頼綱から「そんな事実はない」と断言され、騙されたと急ぎ名胡桃城に戻るが、既に占拠されており城へ入れなかった。

自身が長年守り通してきた名胡桃城を奪われたふがいなさを恥じ、鈴木重則は沼田の正覚寺で自害する。
そして、この事件を機に豊臣秀吉は小田原攻めへと動いたのだ。

切腹は普通だと座ってするが、鈴木重則(鈴木主水)は「立腹」といい、立ったまま切腹をした忠義の武士であったと、沼田市正覚寺に記録が残る。
長い間、正覚寺に鈴木主水の墓とされる墓石があったが、現在は、別人のものとされ、案内なども撤去されている。

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鈴木忠重

鈴木重則の子・鈴木忠重(鈴木右近忠重)は、1574年生まれで、名胡桃城を奪われた際には、母とともに北条家に捕縛された。
解放されると、真田昌幸が引き取って育てている。
一時期には出奔すると柳生宗章と面識を持ち、柳生の庄で柳生宗厳から剣を学んだともある。
帰参すると、真田信之に仕えたが関ヶ原の戦いの前後に再び出奔している。
その十数年後に再び帰参すると、京の伏見真田屋敷の留守居役に任命された。

1622年、真田信之が松代城へ転封すると、鈴木忠重は重用されて藩政も司ったとされる。

鈴木忠重は「傾奇者」とも言われることがあり、その後、3代藩主・真田信吉とは対立して辞職した。
しかし、1648年に真田信之が再び採用し松代藩の重臣となった、

真田信之へこの恩を強く感じていた鈴木忠重は、1658年、真田信之が亡くなると2日後に殉死している。享年84。
長野(松代)の大鋒寺にある真田信之墓所の側に、鈴木忠重の墓がある。

当時、徳川幕府は殉死を禁止していたが、生前より約束していたそうで、特別に許可が出たとされている。
 
幾度も出奔しているが、その理由が不明であることから、真田家の隠密・忍者として行動していたのではないかという説もある。

※鈴木主水の墓がある大鋒寺は、下記の真田信之の記事にて詳しく掲載させて頂いております。

真田信之【真田信幸】とは?詳細版で詳しくわかる吉光のお長持
名胡桃城に関してはこちら
猪俣邦憲の名胡桃城奪取事件

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