豊臣国松は生きていたのか?~立石陣屋・木下延由の謎に迫ってみた


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豊臣秀頼の子・豊臣国松(とよとみ-くにまつ)は生きていたのか?
このページでは、そんな国松の生存説を追ってみたいと存じます。

大分日出城主・木下延俊の死後、速見郡立石5000石を与えられた木下延俊の四男・木下延由(きのした-のぶよし)は、徳川幕府には木下延次の名で届けられています。
また、木下延由は1614年11月9日生まれとされますが、徳川家光の代に編纂された寛政重修諸家譜にて木下延次は、どういう訳か4歳年上にて記載されています。

1608年に豊臣秀頼と側室・伊茶の間に生まれた豊臣国松は、1615年、大坂夏の陣にて大阪城が落城した際に、乳母とその父母の夫である田中六郎左衛門と共に城から脱出を図りました。
しかし、一般的には徳川勢の捜索隊に捕まり、斬首されたといわれています。享年8です。

ただし、7歳の国松の顔を知っている者は徳川勢にほとんどいなかったと考えられます。
そんなこともあり、明石全登が豊臣国松を伴って密かに逃げ切り、薩摩藩の船に乗って九州の地へ渡ったとする「生存説」もあります。
実際に、大坂夏の陣のあと、明石全登の子・明石内記が薩摩まで落ち延びたこと言う伝承もあります。

木下延次(木下延由)の父である木下延俊は、豊臣秀吉の正室・北政所と兄弟である木下家定の4男で、九州大分の日出城主である木下家は、豊臣一門となります。
大阪の陣にも参じていた木下延俊、徳川勢に味方していますが、備中島に布陣しています。
その備中島には大坂城につながる抜け道があり、明石全登や真田信繁(真田幸村)の子である真田幸昌、そして豊臣国松の逃走を手助けしたのではと言う説もあります。

豊臣国松は薩摩・伊集院へ落ちのびたあと、祖父・豊臣秀吉の縁類を頼って日出藩に身を寄せたのではないか?との説があり、それが、木下延次だともされているのです。

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1642年、日出藩主・木下延俊は遺言として3万石の所領のうち、1万石を4男・木下延次(木下延由)に分け与えるよう言い残して亡くなりました。
この日出藩3万石のうち、1万石と3分の1も割譲すると言うのは、なかなかありません。
そんなことをすれば本家・日出藩は立ち行かなくなるのもわかっていたはずですが、木下延次(木下延由)を1万石の大名にしたかったのです。

しかし、反対を唱える家臣が当然おり、家老・長澤市之丞(ながさわいちのじょう)が独断で「聞き間違いだ」として、木下延次(木下延由)への分割は5000石に留めました。
こうして、木下延次(木下延由)の大名への夢は絶たれ、家老・長澤市之丞は主君の遺命を曲げたその責を負って切腹しています。

木下延次は5000石にて立石陣屋を構え、徳川幕府の旗本として交代寄合などを務め、1658年7月6日に参勤交代の途中、45歳で亡くなりました。

立石陣屋の場所は、下記の地図ポイント地点となります。

上記のように陣屋があったことを示す石碑はありますが、遺構などは完全に失われていました。

その木下延次の位牌の裏には「木下縫殿助 豊臣延由」と「豊臣」という文字も刻まれていると言います。
また、木下家の家紋を使わず、明石家の家紋を用いていたともされます。

この家紋だけの話で考えますと、明石家に恩を感じていたのか?、はてまた、木下延次自身が明石家の人間であったとも推測できますが、真偽のほどは不明です。・

なお、暫定的であった内分知の日出藩分家・立石木下家は、日出藩と一時絶縁状態になるなど、関係は冷え切ったもので、1664年になってようやく正式な旗本交代寄合と認められると、のち11代続いて明治に至りました。

日出藩・木下家の19代当主である木下崇俊氏は「国松は薩摩に落ち延びた」という一子相伝の言い伝えがあると語っています。

一子相伝と言うのは、自分の子1人だけに伝え、他の者には秘密にすることを差します。

本当に豊臣国松は生き延びていたのか?
どう判断なさるかは、皆様の想像力次第といったところでしょうか?
ご意見があれば、是非、コメント欄にお寄せ願えますと幸いです。

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