碓氷城~迎え撃つ北条勢最前線「愛宕山城城址探索記」


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小田原城主・北条家にとって碓氷城(うすいじょう)は、碓氷峠を越えて関東に進入する敵に対処する為の、関東防衛における最前線の城の1つ。

真田信繁(真田幸村)の初陣については、通説はこれまで豊臣秀吉の「小田原攻め」(天正18年・1590年)のときとされてきた。
2016年4月10日 朝日新聞デジタルの記事によると、通説に対し、それより5年早い「第1次上田城の戦い(上田合戦)」(真田信繁が16才または19才のとき)が初陣だったとする新説が、長野県の歴史家によって唱えられているという。
大河ドラマ『真田丸』もそんな展開で盛り上げている。

▼後年の真田家の記録、『滋野世記(しげのせいき)』によると、
小田原攻めの項に「時に源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名(こうみょうあり」とあるので、信繁が、豊臣方として小田原攻めに参陣していたことは確かだろう。しかし、初陣なのかどうかは確認できない。

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▼『上田軍記』では、「第1次上田合戦」を初陣としているが、これも信用できる記録では、上杉に人質に出されている期間のことだからあやしい。
信繁が人質として上杉側に入ったのは1585年6月と考えられ、第1次上田合戦は同年閏(うるう)8月2日に始まったとされる。
当時の常識として、いかに上杉景勝が「熱い義の男」でも、向背ままならぬ戦国時代、上杉も領地を接する対徳川との戦を前にして、真田昌幸の実子信繁を里帰りさせるとは私には思えない。
ロマンがなくて申し訳ないが、小田原攻め(1590年)の際が信繁のデビュー戦という通説のままで話をさせていただく。
そうであればこそ、今回探索した「碓氷城址」もその意味合いが違ってくるのだから、初陣の時期の論争は棚上げしておこう。

▼天正18年(1590年)2月、豊臣秀吉が小田原攻め・小田原北条氏討伐のため東海道筋に主力を進軍させるのと時を合わせ、前田利家が指揮する北陸甲信越の部隊(北方隊、北国衆など呼び名は複数ある)が、碓氷峠から上野国へ侵攻し、小田原城の支城つぶしにかかった。
加賀・前田利家前田慶次の他に、越後・上杉景勝、信濃の松平康国、真田昌幸らの北方隊3万5千人である。
このとき、真田は3,000人ほどを率いて先鋒に配置されていたが、真田信幸、真田信繁もここに加わっていたといわれる。

▼北条家の重臣・大導寺政繁は兵2,000人で松井田城の守備についていたが、大軍を展開できない碓氷峠の山中で北国勢に先制攻撃をしようと、家臣・与良与左衛門以下の800人の兵を配置して碓氷城から背後の羽根石山に出撃、大きな堀切を掘って待ち受けた。

▼豊臣方北方隊の先陣・真田軍は、信幸がまず碓氷峠から松井田方面の偵察に出た。そこに、待ち構えていた与良勢と遭遇戦になる。
物見の信幸らは少数であったが、奮戦し主将・与良を討ち取り与良勢を撃退する。
その後、真田軍は後詰めの大道寺軍と遭遇し乱戦になる。
初陣の信繁(幸村)は大道寺軍に突っ込み壊乱させるなどの活躍をし、これが文書により確認できる信繁の初の武功だ・・というのが通説だ。(「長国寺殿御事蹟稿」など。)
碓氷峠在陣の様子は、天正18年3月8日付け、真田信之が受け取った小田原陣中の豊臣秀次(秀吉の甥でのちの関白)からの陣中見舞い返書に触れられている。
北国勢は碓氷峠を突破すると、同年3月20日に松井田城を囲んだ。
4月7日付け書状で、北国勢が松井田城攻囲中なのを真田昌幸が秀吉に報告している。碓氷峠合戦があったのは3月中旬までの頃であろう。
3月29日には小田原の直近防衛線にあたる相模国山中城が落城している。

▼北国軍が碓氷峠ルートから侵入するのを予測して、これに備えて北条方が築いておいたのが「碓氷城」で、その城址は今の群馬県安中市松井田町坂本にある。
長野県方向へ向い、坂本の宿場の街並みが終わると、急峻な碓氷峠への登り山岳路に入る。
旧国道18号線のC-9のポイントから山中に分け入るのが、江戸時代末期まで使われた旧中山道の姿を残す道筋だ。
背後にそびえる刎石山(はねいしやま)が、臼を逆に伏せたような急峻な山なので、あの上だと思うと城址探索意欲を無くしかねないが、碓氷城址はその東方下の低い丘状の杉林に覆われた小山にある。

▼C-9(碓氷峠旧国道カーブ9)から旧国道と分かれ、旧中山道の小径へ分け入る。
私たちが訪れた翌日は『安政遠足(あんせいとおあし)』という仮装マラソン大会が予定されていたので、入山口は賑やかに飾られていた。
あづま屋と小型車3~4台は置けそうな余地がある。
下記の地図ポイント地点付近が、その国道沿いの駐車場スペースとなり、そこから旧中山道の登山路がある。

碓氷城の大手筋は小山の東側と思われるが、踏みいる人もなく踏破が難渋しそうだ。
城址に分け入るには旧中山道をしばらく上って、城の裏口に当る搦手(からめて)口から探索するしかない。

▼急登がやや平になると、「堂峰番所跡」の案内板が建って、石垣が残っているところがある。
江戸時代に徳川幕府が中山道を監視した役人の駐在所跡だ。

この背後から鋭角に右に入り込んだところが碓氷城の侵入ルートだ。
「城址」などの案内板はないから、踏み跡に気をつけたい。
平坦なヤブ道を数分で、空堀上の土橋にかかり、行く手を本郭の土居に阻まれる。
空堀の向こう側をぐるりと囲むように左右両方向に土居がめぐらされているが、ヤブがひどくて中の本郭にはとうとう入り込めなかった。

▼群馬県の古城研究の第一人者山崎一氏(故人)の描いた縄張り図を見ながら、入りやすそうな右方向から大手(追手)口をめざした。
いったん壕底に降りて植林された杉林の中を土居に沿って左に回り込むと、道はそのまま大手馬出しの中に出る。
ここから本郭侵入を試みるもやはりヤブに阻まれ入れず。
馬出しからは竪堀(たてぼり)が一気にふもとへ駆け下りていっているようで、この壕が大手道を兼ねているようだ。
反転して土橋まで戻り、今度は本郭の北側を時計回りに空壕に沿って進んでみる。
いつしか壕の外側の狭い帯状の削平地を行く。左手外側は急な斜面で城外に落ちていく。
右手は空壕を隔てて本郭になり土居が上から見下ろしている。
本郭の最東端だけは突出していて物見台の余地を感じさせる場所があり、これは見事な手つかずの遺構だ。
このさきは先刻、逆方向から踏んできた馬出が見えたので、薮こぎを嫌って、来たルートを引き返した。
縄張り図に私たちが進軍(笑)したトレースを赤く書き込んでみた。

▼築城時期から見て、想定される碓氷峠合戦に備えた北条方の城跡に間違いない。
大導寺政繁が先手必勝を期して心血そそいだ城塞も、ほとんど機能しないまま、真田らの猛攻に破れ、ここを放棄して大導寺勢は松井田城へ兵を引いた。
こうして小田原戦での上野国最大の激戦となった松井田城攻防戦に移っていく。
※この日、群馬県内の国峰城址(甘楽町)など5城址を探索するため、同好の士が神奈川県から来てくれて、事前のリクエストがあったので碓氷城址を3人で探索することができた。
ひとりではとても入って行けそうにない未開の城跡だ。
それだけに遺構は良く遺っている。

(寄稿)柳生聡

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